愚図

落胆する


言葉にすることの難しさ、とかお勉強してこなかったことを悔やむ、とか、ありきたりな脳味噌で悩む。
適切な言葉がいつまでたっても見つからないのは、どうしたら相手に自分の感じることを相違なく、寸分の狂いなく伝うことが出来るのか分からなくて宙を舞うからだ。

両手ばかりが喧しくて距離感などというものは私には難しくて、違うだの分からないだのばかりぐるぐるとしている。
余計な事ばかり口にして黙って立っていりゃあいいものを墓穴を掘ったり地団駄を踏んだりと忙しいのだ。
猫を見ていると思うのは、こうして気ままに膝に乗ったり袋をかじったりだのとしているだけで満たされて、布団に入りたがって包まって伸びをしてさも幸せそうに過ごせることの素晴らしさ、不満があるんだかないんだか見ているだけでは何も分からず、それでもこちらがやきもきしていることなどに関わりなく概ねうまく生きていることへの憧れである。
一体どうして考える脳味噌などというものがあるのか人間は煩わしく、一層猫として君とぐうたらと過ごせたらいいのに、と考える。
連絡や気遣いや余計なお世話や回り諄い会話、腹の探り合いだの何だのと、そういう類を感覚と呼ぶのであれば正しくは触覚で繋がるべき、と持論付ける。
筈なのに。

あなたは懲りないねと大して良く知りもしない他人から言われてしまう程には、私はどうにも懲りないのだ。
ぼーっと生きていることを詰られている場面を多々目にするけれど、ぼーっと生きるだなんて到底難しくて、私は羨ましくって仕方がない。
あのひとがいつも答えてくれること、私は学ぶことなど知らぬムーミントロールみたいに、なぜなぜどうしてと聞いてばかりだった。
私はすっかりあのひとをスナフキンのように慕っているけれど、時々泣きそうな声でわかんない、と言ったあのひとの悲しい声を前に何も言えずただ木偶の坊みたいに突っ立っているだけだったのだ。
わかんない、というあのひとももしかしたら、こんな気持ちだったのかもしれない。
あのひとはいつも、十年も先を生きていたのだろうか。


コメント

ログインするとコメントが投稿できます

まだコメントがありません