朧の花嫁3 君がために

作者みちふむ

「朧の花嫁2の続編」。晴れて横浜で仕事をする清子は辛い目に遭う。しかし、函館の彼は必死に清子を捜索する。

「ああ。暑い、今夜は蒸すな」

「そうですね。ただいまビールをお持ちしますね」


港町の函館の夏の宵の縁側で、岩倉朔弥はうちわで仰ぎながら星を眺めていた。基坂の上のこの屋敷の縁側は、遠くには海が見えていた。水平線の辺りの漁船の漁り火が美しく光っていた。今まで見えなかった景色を朔弥は独りでただ見ていた。


……去年の夏は、隣にいたのに。


白いシャツの朔弥はふと隣を見た。そこには誰もいない。ただ虫の声と、潮風が彼を包んでいるだけだった。思わず朔弥は、ため息で遠くを見ていた。

その時、聞きなれた足音がした。


「兄上、縁側ですか」

「珍しいな。仕事の帰りか」

「……港祭りで顔を出してきた帰りさ」


開襟シャツの哲嗣が髪をかき上げ、兄の隣に座った。


「はい、これ、イカ飯」

「おお。気が効くな。瀧川!哲嗣が来たぞ。早くビールを持って来い」


はーいと言う瀧川の声に兄弟は微笑んだ。イカ飯を見つめた朔弥に哲嗣は、つぶやいた。


「兄上、横浜運送に正式に断りを入れたよ」

「お前には面倒をかけたな」

「いや。これは例の山中が絡んでいたんだ。我々を騙そうとしたとは、思い出すだけでも腹立たしいよ」


親指の爪を噛む弟の哲嗣に怒気の様子に兄は笑みを見せた。


「我らに宣戦布告とはな?倒す相手ができて楽しみだ」

「また呑気なことを」


ここで、爽やかな風が吹いた。朔弥はここでイカ飯を手に取った。


「それにしても良い匂いだ。まったく清子が選んだ名物料理が、こんなに流行るとはな」

「……その件については、兄上に謝らないといけないな」


哲嗣は婚約者としてやってきた清子を、最初は気に入らなかったと打ち明けた。


「その名物料理を選ぶコンテストだって。清子さんは怖気付いて欠席すると思って彼女の名前にしたんだ。でも、彼女は立派に審査を務めた。俺は自分が恥ずかしいよ」


夏の匂いと虫の音に助けられながら哲嗣はそう、打ち明けた。


「知っていたよ……お前が、清子を気に入らぬことを」

「兄上」


遠くを見ている朔弥へ哲嗣は俯いた。


「兄上、本当に済まなかった。俺は、あの時、清子さんにした仕打ちを、今でもずっと後悔しているんだ」

「愚か者。俺に謝ってどうする?そもそも哲嗣、俺もな、最初は見合いに来た清子を、金を渡して追い返そうとしたんだ」

「へ?」


てっきり。最初から両思いで始まった二人だと思っていた哲嗣は驚き顔で朔弥を見た。朔弥はモグモグとイカ飯を食べた。


「それまでの俺の見合い相手の娘はな?皆、金目当てでやって来たが、実際、俺の目を見ると、途端に嫌になるのだ。そして金を受け取って帰ったのに清子だけは違ったんだ」

「そうだったんだ」

「ああ……俺もなぜなのかしばらく不思議だったが、清子と一緒にいてわかった。清子はな、俺の目のことなんか、最初から全然気にしてなかったのだ」

「兄上」

「清子はな。もっと違うところを見ておるのだよ」


朔弥は蚊取り線香を、哲嗣のそばに置き直した。


「それにな。清子は痣のある自分を、かなり卑下し、過小評価しておった。自分は嫁になどいけぬ最低な人間だと。だから、自分から婚約を破棄するなど恐れ多く、まったく頭にないわけだ」

「過小評価、か。それは、そうかもしれませんね」


兄弟は蚊取り線香の煙の揺らぎを見ていた。哲嗣はぽつと話した。


「あの炭鉱の火事場の中で、清子さんは俺たち三人を火の海から助け出したのだ。彼女はあの時、かなり酷い火傷を負ったのに兄上には言わずにいてほしいと言っていたんだ。あの時の痛々しい様子、あれを思うと俺は今でも苦しいよ」

「なあ哲嗣よ。清子は私などと婚約して、幸せであったのだろうか」

「え」


夜風に朔弥は長い髪を流した。


「最近、ふと思うんだ。あいつには苦労ばかりかけてしまって、返って不幸にしたのではないか、と」


弱音を吐く兄を哲嗣はじっと見つめた。


「本当に好きなんだな」

「え」

「清子さんをそこまで思えるなんて……羨ましいよ、あのさ」


哲嗣は立ち上がり、庭を歩いた。


「実は札幌創業の内藤さんも、清子さんを探してくれているんだ。情報があれば、俺も出向いている」

「内藤か。あの曲者のことだから、どうせ夜の花街を探しておるのでろう」

「……ああ」

「だが、そんなところにはおらぬぞ?」

「え」


朔弥は面倒そうに足を組んだ。哲司は驚いた。


「どうしてそう言えるんだい」

「先程申したであろう?清子は自分の容姿に自信が無い娘だ。仕事をするなら身を隠すもの、さもなくば、容姿を気にしない力仕事、汚れ仕事を選ぶであろう。あるいは特殊なものや表に出ない仕事だ。例えば、そうだな。誰かの屋敷にて女中などをするもよし」

「で、では。その女中で探してみようよ」

「無理だ」


朔弥は下駄を履き庭に出た。星を見上げていた。


「顔に青痣のある娘を雇うのだ。よほど理解があるか。あるいは知り合いの紹介などがなければ、清子を雇うはずがない」


そこまで考えている朔弥を哲嗣は驚きとともに、あることに気がついた。


「……となると、兄上」

「ん?」


立つ兄と縁側の哲嗣は考え込んでいた。


「俺は思うのだけど。それは清子さんも、そう思っているんじゃないかな」

「というと?」

「いいかい?彼女は兄上の考え方を知っている。だから、その裏をついてくるかも知れないってことだよ」

「……では。清子はどこぞの屋敷にて、女中をしているかも知れぬということか?」


哲嗣は真顔でうなづいた.


「ああ。それに、あの顔の痣だ。横浜の案内人も言っていたんだが俺たちはあの痣にこだわりすぎなのかも知れない」

「ふ、ふふふ」

「兄上?」


笑い出した朔弥を哲嗣、顔を見た。


「はっはは。確かにそうだ。そうか?それならそうだ?清子は親切だから。誰かに仕事を紹介してもらった可能性がある。なるほど。ああ。そうか」


新たな可能性を思いついた朔弥の嬉しそうな顔に哲嗣はほっとした。その時、ドーンと音が響いた。


「うわ?綺麗に見えるな」

「花火か」


函館の夜空に咲いた花。朔弥はこんなに綺麗に見たのは初めてだった。哲嗣、嬉しそうに兄に寄り添った。


「なあ兄上。よく見て。綺麗だろう?……兄上?」

「ああ、視えているよ」


朔弥はなぜか目を閉じていた。哲嗣とこの場にやってきた瀧川は彼を不思議そうに見つめた。


「清子が申しておった通りだ。暗黒の夜空に赤や黄色の火花が一瞬で燃えている。それが円状の形と星となり、そして涙のように静かに垂れている……」

「そうか。兄上は清子さんから説明を受けていたんだね」

「ああ。そうだとも、おお?この音は一尺玉か?腹に響く轟音、この函館の夜を、覆い尽くすかのようだ」


この目を瞑った兄を哲嗣は思わず肩を抱いた。


「兄上。大丈夫だよ。必ず俺が清子さんを見つけるから」

「いや?俺が見つける」


朔弥は目を開けて、弟の手をスッと解いた。


「お前はな。この俺に全てを任せておけばそれで良い」

「いいって!俺が見つけるから」

「哲嗣……俺はお前の兄だぞ?そこは譲れ」

「譲れませんね?清子さんを見つけるのは俺です」

「ならぬと言ったらならぬ!」

「はいはい。お二人ともそこまでですよ!もう良いです!瀧川がこのビールを先に飲みますね。いただきますー!」


夏の夜、函館の潮風の彼らは、ただ清子を想っていた。それだけだった。