シェア
マスター。風邪って物凄く辛いんだよ。知ってる?』293ページより
そんな、なんて事のない問いかけから始まった彼の話に、俺は、うん、うん、とひたすら静かに頷いた。ぽつり、ぽつりと語られる彼の言葉は、まるで降り始めたばかりの雨のように、少しずつ俺の身を濡らしていく。
それは、とても心地の良い感覚だった。
これまで店の客の様々な昔話を聞いてきた時も、同じような感覚になった。皆の大切な思い出は、まるで俺に暖かい恵の雨のように、優しく降り注ぐのだ。
『体が熱くて、熱くて、頭はぼーっとして、目は開けると世界は歪んで、涙が出る。けど、あんまり熱いから、出た涙までどんどん乾いて空に行っちゃう』
彼の話を聞きながら、俺も、また少しだけ“自分”について思い出していた。俺は、彼の話を聞くのは初めてではなかったのだ。
----------皆みたいに、自分の昔話が欲しいの?なら、俺の昔話をキミにあげるよ。
そう言って、涙を流す俺に入れ代わり立ち代わり、色んな人が“俺”に、自分の大切な記憶の断片を教えてくれた。
その中に、彼の話もあった。彼の話が一番お気に入りで、そして、彼から少しそのお話を貸してもらった。