社会という秩序のために見てみぬふりをされなくてはならない人、また、無秩序にふれた者の心情、その後の生の行方を書きました。

彼の生き方というのは非常に悲惨なものであった。

彼は五人兄弟の末であったが、能力は最も高かった。臆病故に用意周到であり、それが彼を価値のあるものにしていた。しかし、結局はものでしかなかったのである。両親、ひいては兄弟の鬱憤バラシのものでしかなかった。私は、一度、彼が、家の近くの公園に連れ出されているところを見たことがある。彼は、引きずられるように、それが、せめてもの反抗であるかのように、黙ってついていった。その後の光景はあまりに数奇であり見るに耐えなかった。彼が、砂利で隠されたものに顔面を突っ伏し始めた頃には、私は走って逃げ出していた。

彼が次第に心を塞ぎ始めることは論を俟たなかった。彼に青春はあったのだろうか。私が言えることは、彼が、いや、彼の価値が、彼を悪事へと導いたということのみである。あろうことか、彼は裏社会においても高い才能を発揮したという。私が知っているのはここまでである。12年後、再会したときには彼は既に、麻薬に溺れ、人から逃れ、自決しきれず、体は憔悴しきっていた。ただ、眼だけが、諦めの中に微量の鋭さを宿し血走っていた。諦観していたのだろうか。彼の周りにはもう誰もいなかった。本当は、最初からいなかったのかもしれない。私は、彼をここまで追い詰めた環境を呪った。呪うことしかできなかった。


私は彼に聞いたことがある。「辛くないのか?」と。彼は答えた。


「それは同情か?」


私の沈黙を彼は肯定と捉えた。


「君は僕が辛そうに見えた。そして、なんとかしたいと思った。君は僕の現状脱却を望んでいる。そうだろう?でも君は気づいていない。その同情という行為を通して、無意識下で自らを巧妙に正当防衛していることに。」

淡々と吐かれる彼の言葉に、私の中の何かがガラガラと崩れる音がした。

「頼んでもいないのになにかしてあげようという視点で僕を見、何もできないことに気づいて無力感を感じるのだろう。実際君は小さい頃から僕を知っているにもかかわらず、僕に何もしていない。何もできていない。僕は覚えているよ。君があの日、公園で、僕の無惨な姿を見て逃げたことを。」

耳の奥に、あの日の少年達の声が木霊する。上がる息と、迫りくる夕陽。

「その無力さや怯懦を曝け出さないために君は同情するのだろう。僕が君から見て不幸であるために君の感情を害したことは謝るが、君の同情に、君の情けに、なんの意義があるというのだ。


僕は、もう、不幸で居続けるほうが楽で幸せなんだ。

だから、ほっといてくれ。」


私は、言葉を失った。彼が、なぜここまで同情を嫌うのか。

おそらくずっと考え続けていたのだろう。社会の視線が自分を捉えているにも関わらず、なぜ、何もしてこないのか。自分は、なぜ、普通に生きることができないのか。自分が、幸せになることはあるのか、と。


この会話を最後に私は彼と会うことはなかった。彼は程なくして自殺したのだ。その後、彼の家へ行ったとき、メモ帳らしきものを見つけた。そこには、彼の本音があった。そして私は、ようやく理解した。彼が憎んでいたのは、彼に身体的ストレスを課したあの者達ではなく、自らの無力さを自覚することもなく、傍観者で在り続け、善人を装い続けた、他でもない私なのである。そして、彼の人生を狂わせたのもまた、私であった。正確には、私のような社会そのものであった。あの日、私が逃げずに彼と向き合っていたのなら。誰か、一人でも彼に話しかけていたのなら。社会の制度が、彼を一度でも救うものであったのなら。彼は変わっていただろう。少なくとも、孤独ではなかったはずだ。人は、孤独を感じたその瞬間から、杞憂なほどに考え続ける。答えが出たとて、考えることを辞めることはできないのである。彼が、そうであったように。私が、今、そうであるように。