妻、文江の退院の日。
夫と妻の、春のほんの一瞬を切り取った物語。

会話とは……言葉とは、大切な思いやりの形なのかもしれない。

会話のみで書きました。

「寒くないか?」



『寒くありません。大丈夫ですよ。あなたこそ、車椅子押すの重くありませんか?』


「このくらい何ともない。……もう春か。だいぶ暖かくなってきたなぁ」



『そうですね。外の空気はやっぱり気持ちが良いです』


「長かったもんなぁ……治療。よく頑張ったよ文江」



『髪の毛は無くなっちゃいましたけどね』


「そんなこと気にする年齢じゃないだろう。命にはかえられない」



『あら、女は何歳になっても女なのよ。全然分かってないわね、あなた。でもあなたが選んでくれたこのニット帽があるから平気よ』


「ふん。今度はカツラを買いに行かなくてはいけないなぁ」



『それもいいですけど、あなた見てください。桜の芽が出てきてますね』


「おぉ本当だな。今年の開花は早くなるってニュースで言っていたなぁ」



『そうなんですか。見に行きたいですね、桜』


「退院したんだし、今週の金曜日にでも見に行こう。高田公園の桜は絶景だからなぁ」



『高田公園ですね。嬉しい。約束ですよ。懐かしいなぁ。光一や南を連れてよく行きましたよねぇ』


「そうだったな。光一なんて『トイレが無いトイレが無い』って言って泣いてたなぁ。南は南で『ポッポ焼き食べたいよぉ』って駄々をこねてた。……本当に懐かしいなぁ」



『そうでしたね。それであなたが駐車場の裏で光一にオシッコをさせるもんだから、警備員の人に怒られて光一ったら大泣きしていましたよね』


「はははっ。そうだったなぁ」



『それであなた、今日は仕事行かなくていいんですか?』


「文江が退院する日なんだから、今日は休みを取った。これからはいっぱい文江との時間を取れるように、若い奴らに仕事を教え込んできたから心配するな」



『あらあら、若い子たちも大変ですね。あなた、怖いから』


「そのくらいのことをしないと今の若い奴らは育たん。文江が心配することではない」



『ごめんなさい』


「何を謝っているんだ? 癌なんて虫歯みたいなものじゃないか。ちゃーんと毎日歯磨きしていても、なる時はなる。だったら治せばいいだけじゃないか。現にこうして文江は治った。それだけで充分だ」



『うん。あたし、映画も見に行きたいわ。入院している間にたくさん見たい映画やっていたものね』


「そうだ、映画だよ。私もずっと観に行くの我慢していたんだからな。いっぱい観に行こう。って、字を間違えているぞ。映画を観るの【みる】はこうしてだな……」




『見←✖️ 観←○』



『そうでしたね。舌を切除して、こうやって字を書いてあなたと会話するのにも慣れてきたと思っていましたが、まだまだですね』


「漢字は私の方が得意だからな」



『もう、これからはぜんぶひらがなでかこうかしら』


「やめてくれ。ただでさえ老眼で見えないというのに、それをされてはかなわない」


「「ふふっ」」





『あなた』


「ん?」


あえあおおありがとう