私のアビス(深淵)作品『紫のシクラメン』

作者teraokyohei

主人公(僕)はある日花屋で働く女性(彼女)に恋をする。
花屋に通い始め段々と仲を深めていくが、
ある事がきっかけで彼女と更に深い仲に。

彼女は僕の光だった。


恋愛について僕が語るほどの経験はしていない。ただ彼女は、彼女だけは僕を信じてくれた。この先どんなことが起きても彼女のあの笑顔は忘れない。


彼女は花屋に勤めていた。

初めて彼女と出会ったのは24歳の冬だった。駅の改札を出てすぐ正面にその花屋はあった。チェーン店だったので名前は聞いたことがあったが、男性一人で入る勇気はなかった。


その日は12月の日曜。肌寒く空気が乾燥していたと思う。ふと店頭に置いてある紫色の花に目が止まった。どうしても気になり、近くまで見に行った。じっと花を見つめていると、


「シクラメンですよ、それ。」


と話しかけてきた女性店員がいた。続けて


「シクラメンって一年かけて何度も咲く花なんです。何度も、ここにいるよ、見て、って言われてるみたいで。私、この花が大好きなんです。」


そう彼女は屈託のない笑顔で話していた。


ドクン…ドクン…


僕は彼女の笑顔に惹かれていた。




学生の頃、僕はよくイジメにあっていた。

普通が良い、少しでも目立つことをすればイジメのマトになる。

僕はなるべく目立たないように心がけた。

それはそれは毎日つまらない。

勉強くらいしかやることがない。

成績は良かったのでイジメの奴らから答えを教えろと言われた。

従いならがヘラヘラ笑っていた。

そんな自分が嫌いだった。


そんな時、担任の先生が手を差し出してくれた。いつも優しい笑顔で僕に本の話をする国語の先生だった。

(先生の薦める本は面白いものばかりで、今もたまに読むと先生を思い出す)

先生は僕に生徒会に立候補しないか、と提案してくれた。


そんな目立つ事したらまたイジメにあう…


最初は断ったが、折れずに何度も先生は僕に推薦してくれた。

そんな先生の真っ直ぐなところが嬉しくて、僕は勇気を出して立候補した。

結果は選ばれた、全校生徒からの投票の半分以上が僕になっていた。


今思うと先生のあの一言がなかったら今の僕はいない。

そして先生のあの屈託のない笑顔がどこか彼女にもあった。


そんなことをふと思い出した。

昔の話である。


気が付けば花の説明など全く耳に入らず、彼女の綺麗な横顔ばかり見ていた。

目が大きく透き通るような目の色をしていて、唇はふっくらしていた。

唇の右下にほくろがあって、それがまた大人っぽく感じた。

髪はサラサラで胸元まであり、いい香りがした。


「あ、すいません、話しばかりで、どうぞ、お好きなお花を見つけてください。」


(見つけました、キミです。)


なんて口が裂けても言えないが、そう思った。

その日シクラメンを一つ購入した。

彼女はシクラメンの花びらを傷付けないように丁寧に梱包してくれた。

本当にお花が好きなんだなと思った。


次の日になっても、彼女の笑顔、雰囲気、香り、仕草、長い髪の毛…頭の中が彼女でいっぱいだった。

来週も行こう、そう心に決めてシクラメンに水をあげた。

シクラメンから喜んでいるような香りがしてきた。


来週は花の香りの話をしようと決めた。


それから毎週日曜は彼女のいる花屋に通うようになった。

前日の夜に明日何を話すか考えながら次の日に備える。そんな時間がたまらなく好きだった。また彼女に会える、それだけで仕事も頑張れた。


ある日の日曜、彼女はいなかった。

店員さんに聞いてみると今日は急用ができてお休みした、と言われた。


その次の週、彼女はいた。

ただ様子がおかしい、どことなく元気がなく、髪を短くショートにしていた。

とっても似合っていたが、元気がないのが気になり、話してみた。

彼女は


「…別に何もないですよ、気分転換に髪切ってみました。似合います?」


どこかおかしい。ぎこちなく感じた。

僕は咄嗟に持っていた紙とペンを取り出し、自分の連絡先を書いて彼女に渡した。


「もし何か困っていることとか…何でもいいから、話せるなら聞きます。僕もお花の相談とかしたいし、連絡お待ちしてます。」


そう告げてその日は花を買うことも忘れて帰宅してしまった。


緊張した。


人生で初めて連絡先を交換した。

(それも自分から一方的に)

彼女から連絡が来るまでお店にはいかないと決めた。

もし連絡がこないのであれば、それだけのこと。


その日の晩、23時を過ぎた頃、彼女から連絡があった。

直接知らない番号がかかってきた。

瞬時に彼女だと思い電話をとった。


「もしもし?」


「もしもし、私です。夜分遅くにごめんなさい。今、すこし話せますか?」


彼女の声は不安気で元気がなかった。

啜り泣く声がして、僕は咄嗟に


「今、どこですか?会って話しませんか?」


と言った。



彼女の接客が好きだった。

彼女は花と同じくらい人にも丁寧だった。

迷っているお客がいたら笑顔で声をかけ、お客の想いを汲み取り商品を提案する、小さい子が来た時は同じ目線になり話を聞いていた。

特に僕が驚いたのは黒板やプライスカードへのこだわりだ。産地の情報はもちろん、どの花、どの花瓶に合うか、見やすく丁寧、彼女の書く字も好きだった。

彼女の書いた黒板を一日中見るのさえ、僕には至福の時間だ。



電車で移動中、そんな彼女への溢れる思いを噛み締めながら、約束した駅に着いた。

彼女は改札口の前で、申し訳なさそうな顔で待っていた。


「ごめんなさい、待ちました?」

僕が言うと、

「今着いたところです」

彼女が一言。


…。


何から話せばいいのか分からず、1分ほど沈黙が続いた。


「どこかゆっくり話せる場所に行きましょう。居酒屋とか。」

と僕。


「じゃあ近くに落ち着いた雰囲気の居酒屋があるので、そこでどうですか?」

と彼女。


早速お店へ歩き出した。

彼女の歩幅に合わせて僕は隣を気にしながら歩いた、一言も会話なくお店に着いた。


お店は落ち着いていい雰囲気があった。

このお店の接客を見本にしていると言っていた、確かに気持ちのいい接客だった。


お気に入りのお店だったらしく、入店するとおしぼりを顔に当てて少しリラックスした様子を見せた。


話は本題へ、彼女に聞いてみた。


「…何があったの?」


「…実は先週末に夫から暴力を受けて…髪の毛も短くしろと言われて…」


僕はたまらない気持ちになり、思わず彼女の隣までいき、そっと抱きしめた。


…?夫?結婚してた??


しかしそれよりも、

女性に暴力をするなんて最低だ。

僕の方が彼女を愛してる。


絶対に。


内心は動揺し混乱していたが…


彼女への積み重ねてきた想いが、絶え間なく反応して、身体と心が、自分を止めることができなかった。止めようとも思わなかった。


それと同時に彼女からあのシクラメンの香りがほのかにした。

(…あのシクラメンは寂しかったのだ、悲しかったのだ、だから香りがしたのか…)


僕は彼女とシクラメンを一つにして撫でるようにその香りごと包みこんだ。


彼女も何も言わず抱きしめてきた。

僕らは自然と顔を近づけてキスをした。

唇が柔らかくとろけそうだった。

彼女と宿へ行き、早朝に帰宅した。


翌朝、小さな雪が降っていた。


これが僕が初めて経験をした「不倫」

世間から悪いとされている「不倫」

不倫ってどんな感覚…?


普通の恋と変わらなかった。


それから時間が過ぎるのはあっという間だった。彼女に会いたい、ただそれだけの為に生きていた。

彼女は仕事終わりから帰宅までの短い時間に毎日連絡をくれた。


一生に一度会えるかどうかの運命の人、それ以外に表す表現が見つからない。


彼女とたくさん、遊んで、飲んで、食べて、笑った。一つ一つが一瞬でキラキラしていた。


その日は日曜だった。

何の前ぶれもなくやってきた。


「…別れよう、家族を裏切れない。」 


そう言われたら、何も言い返せない。

わかった、と一言告げて僕は彼女から離れていった。

二人とも泣いていた。

お互いが気持ちをグッと堪えているのがわかった。



最後に彼女へ出来ることがまだあるなら何でもやりたい、そう思った。

何ができるだろうか…


そうだ、シクラメンをあげよう。


あの日あの時彼女と出逢わせてくれた紫色のシクラメンを買って彼女にあげよう。

あの香りはまだするだろうか、それはわからないが、僕はシクラメンを買いにあの花屋へ向かった。



花屋に着いて店員さんに彼女はいるか尋ねた。


「そのような方はいませんが…?」

「どちら様ですか…?」


…え?


頭が混乱した、彼女の顔が急にぼやけてきた。頭痛がしてきた。

彼女との思い出がだんだん変わっていく。

彼女ではなく、友達や家族の思い出に…

世の中に彼女の存在を知るのは僕だけになった。

その僕も忘れようとしている。

必死に抵抗したが止められない。


だめだ…



はっ、と気がついたらベッドの中だった。

汗をかいていた。

何か長い夢を見ていた気がするが、どうしても思い出せない。

なぜか涙まで流している。


昨日、妻に暴力をふってしまった。

髪を短くしろと怒鳴った。

…なんであんな風にしか言えないのか。

自分が情け無い。後悔している。

…彼女に謝り、もう二度と手を出さないと誓おう。


大好きな妻なのだから。


心から愛している。


ベッドの横にいい香りのする花が置いてあった。

僕の妻は台所で朝ご飯を作っているようだ。

妻を呼んでこの花は何かと尋ねた。


「忘れたの?私の大好きなシクラメンよ。」


そうだ、この香り、紫色のシクラメンだ。

彼女はクスッと笑った。


彼女の笑顔が朝日と混じりキラキラと輝いて見えた。


そう、この笑顔。

屈託のない笑顔。


彼女は僕の光だ。