あの日、貴方が綺麗と言った月の本当の美しさを知ったのは、とある春のことでした。

「……」



貴方には、僕の生きた泡沫な終生を、笑いで片付けて欲しいんです。



僕は出逢ってしまいました。

風光明媚な景色に映える麗しい乙女と桜の散る刹那に。



そんな端麗な容姿に僕の心は何かを憶えるのです。


それはきっと憂に満ちた恋の記憶、1ミリグラムの独占欲、今でも忘れぬ、鼻腔を満たす芳しい香りと痛みに似た強い衝撃、あれは紛れもなく恋でした。



暖かい春の日差しの中で、貴方の事を思う。

どうも貴方を前にすると正気を失ってしまうようで、僕が素っ気ない態度をとってしまうと貴方は全てを理解しているように微笑みかける。



端麗な貴方にはまるでそんなの慣れっこみたいで、不慣れな僕を見透かしている様で少しもどかしかった。



それから月日が経っても僕は相変わらずでした、もう貴方の纏う香水の匂いが鼻腔に記憶され始めているというのに。



貴方はとても不思議でした。貴方が生きることはまるで何かの現象の様でした。

僕の心は嵐に襲われたかの様に荒らされて、貴方という記録的猛暑に僕はやられてしまう。それでいて貴方は朧月夜に浮かぶ月のように美しい。



そう思う程、僕と貴方が釣り合う事はどうも可笑しくて、きっと僕らを天秤にかければ僕のせいでバランスは崩れてしまうはず。



今ならもう少し、貴方の数多にある美しさに気づいてあげることが出来るでしょう。



ごめんなさい。



《今夜は月が綺麗ですね。》


ある日、そんな唐突なメールに僕は夜空を見上げ月を探しましたが、あいにく雲に隠れて見る事は出来ませんでした。


それから少しの間僕は近くの河川敷に腰掛けて、衰えを見せない朧月夜を遠望した。




『あいにく雲に隠れて、一瞬の間しか見る事が出来ませんでしたが、確かに綺麗でした。』


それは正しく弄月。

居場所は違えど貴方と共に眺める月は綺麗でした。

この月は何処か貴方に似ています。



『今度良かったら、春月を共に過ごしましょう。』



《はい。》



貴方の端麗な容姿と、時折見せる微笑みは僕を満たしてくれるのです。



それはオレンジ色の恋、1ミリグラムの渇望感、無知という名の白いキャンパスに彩られた色彩。



僕の人生を彩ってくれたのは貴方でした。



《今夜も月が綺麗ですよ。》



『月がお好きなんですね。』

貴方が綺麗だと言った物は全て美しかった。

貴方と月を眺めるこんな夜が愛おしかった。

メールの着信音が聞こえると、暖かかった。




貴方の隣にいれるだけで幸せで、この報われない恋がいつまでも続けばいいと思った。

この片思いが幸せだった。



そう思ってた。



「…..」



あの日、貴方が綺麗だと言った月の本当の美しさを知ったのは、病に蝕まれる春のことでした。



それは桜の木が生命力を感じさせてくれるような桃色に染まり始めた頃、忍び寄る病魔は後ろから僕の肩をたたいた。



空へ羽ばたく雀の生命の躍動感を感じるのとは裏腹に、思うように動けなくなった体が無機質な病室に独り。



当分、貴方とは春月を眺めることはできなさそうです。襲う病魔も動かなくなる体も、それほど怖くはかなったけど、貴方と約束した、春月の夜を過ごせなない事だけが、ただ惜しかった。



けれど時折、貴方は僕の前にやってきて、無機質な病室を彩ってくれました。貴方の前では強がりたくて、『ちゃんとご飯たべてますか?』

なんて慣れない事を言うけれど、貴方はまた全てを見透かしたような顔で微笑みかけるので、やはり僕は貴方の前では全て正直に打ち明けようと思ったのです。



きっとこの恋は、僕が死んで初めて恋と呼ぶ。

断片的な恋というのでしょうか。

貴方に費やしたのは、僕という人間の全てでした。最大限の愛、感謝、時に嫉妬や憂い、

それが一方通行だとしても、僕は幸せでした。



恋のままで終わりたい。仮にも成就してしまったら、この恋は悲しすぎる。

病室からは満開に咲いた桜の木々が良く見えて、僕は、風に吹かれて靡く桜の木々を一望しながらそう思った。



何となく、死ぬのは他人事で、自分は死なないなんて変な自信を持っていて、いざこの場に立ってみて分かった。人は死ぬ、急に死ぬ。幸せは絵に描いたように簡単に壊れる。



死ってほんとにすごい。長年かけて並べたドミノを第三者が倒す様に。天を目指すバベルの塔を神が刹那の如く壊す様に、それは酷く理不尽で誰も抗う事ができない。



僕に与えられた不幸中の幸いは、ここから見える桜の木々と、貴方だった。



「….」



『生きる事は誰かに許されている』

誰の言葉であっただろうか。

ある日突然脳裏に浮かんだ言葉、まるで僕を肯定してくれるようだ、望むなら貴方に…。



「…」



病と共に生きる生活にようやく慣れてきた頃、病状が悪化した。先を見据えるとそこに在った薄く、ぼんやりとした死がハッキリと、鮮明に見えるようになったので、僕は遺書と言うものを初めて書くことにしました。



最初は何も書けなかったけれど、時が過ぎるにつれ、命に正直に向き合えるようになった。

以外にも遺書は誰かの事を思い書くと、直ぐに白い紙は自分の字で埋まるようです。



無意識にも、手紙では強がったことを書いてしまったけど、きっと誰の元にも届くことのない手紙だと思う。だけど、僕は貴方を思って書きました。



思い返すと、正に断片的な恋で、在るのは貴方の笑顔や、声や仕草。どれも良いものでした。本当にありがとう。



そんな貴方を思い返して書くと、なぜだか涙が溢れました。



「..」



貴方には、この桜が散る頃に…。なんて言ってみたかったけど、思いの外、桜が散ってしまうのは一瞬の事で、いまでは本当に刹那に思います。




桜は間もなく嵐と共に消えてしまいます。





それは夕日が沈み、夜を迎え、月が顔を出し始めた頃のこと。



貴方が会いに来てくれてました。



病室に入る貴方に『部屋の明かりを暗くして欲しい』と我儘を言うと貴方は部屋の電気を消して、横になる僕のベッドの隣にやって来てくれた。



"それは、風光明媚な桜に映える春月の晩のこと"



薄暗い部屋に明かりは要らなかった。

間もなく終わりを迎える桜は盛大に花めく。

それに映えたのは一つの月だった。



それはそれは美々しく幻妖な煌めきを放つ月。月の明かりは僕らの病室を優しく照らしてくれた。



僕にとって目に映るもの全てが非現実な光景でした。まるで月は僕らのためだけに光を放っている気がする程美しく、桜は今日のために散らずにいてくれたかの様に。



それは正に、僕にとって最後の春月でした。



貴方と共に過ごす、最後の春の夜。

約束した、春の夜。



言葉は必要なかった。物音一つない森閑な部屋で僕らは黙って春の月を遠望した。

これはきっと憂に満ちた恋、僕の泡沫な恋。

本当にありがとう。



舞う桜も、煌めく月も、貴方には敵いません。いや違う、風光明媚に映えたのは貴方だ。



桜も月も、貴方を引き立てるものでしかなかったかのように、僕は、ただただ月を眺める君を見つめていました。その美しさと温もりが貴方から貰ったなにかでした。貴方だけが愛おしい。



部屋は静まり返り、自分の心臓の音さえ聞こえるようで、僕はまだ生きているのだと不思議な感覚に陥って気持ち悪かった。



「.」



このまま、何の音も生まれないまま、この静かな部屋で眠り、貴方の消えた朝を迎えられればどれほど良いだろうか。

このまま、この春月の夜と共に眠りたい。

貴方が傍にいるうちに眠りたい。



この夜が終わり、貴方が帰るところなんて見たくない。悲しすぎます。

ずっとこのままなんて我儘は、らしくないだろうか。



月明かり照らす森閑な部屋、まるで静まり返った水面に雫が落ちる様に、この静まり返った部屋にもまた、一滴の雫が落ちた。





《月が綺麗ですね。》





静寂の中の衝撃。

まるで落ちた雫によって水が波を立てるように、貴方のその言葉は、静まり返った病室に優しく轟いた。



思い出すのはあの日の晩のこと。

共に朧月夜を眺めた夜、貴方に似て美しかった弄月。 それからも、貴方は僕に教えてくれた。



刹那に散る桜に、月の美しさ。必然的と言えるような生命力、貴方という生命、それに、死の美しさと理不尽な幸せ。



貴方が全てだった。

貴方が僕の人生を彩ってくれた



ああ神様ありがとう。僕に病魔を遣わせたのも、幸せを壊すのも全て許します。

彼女に出会わせてくれて本当にありがとう。

これ程までに幸せな事はありません。



今でも信じられない。

正に幻妖な明かりに騙されている様で、

貴方がそばにいてくれて、共に月を眺め、貴方で終わる。これ程までに幸せな事はない。



僕は消えて、貴方はその真っ白な翼で何処かへ飛び立つでしょう。だけど、大空を翔ける道すがらで、ほんの僅かでも僕の何かが脳裏に浮かんだら、そっと含み笑いをしてほしいのです。



貴方の記憶に僕を留めてくれるのなら、貴方の中で育つことの無い僕がまだ生きていられるようで嬉しいのです。だけど、生かすも殺すもどちらも正解です。



もし忘れる時には、春月を見ても何も思わないぐらいにどうか残酷に忘れてください。






ありがとう

なんて在り来りな言葉じゃ表現出来ない。

これは幸せに満ちた恋と、1ミリグラムの独占欲。一生鼻孔から消えることのない貴方の匂いと、痛みを感じるほどの衝撃。



貴方が綺麗だと言った月は確かに美しかった。そして今夜も。

僕はその月の本当の美しさに気づきました。



貴方に出会えて良かった。



ありがとう。



僕はもう…




『……死んでもいい。』




「」




僕には夏を迎える事はできませんでした。

死ぬことは大して怖くないけど、死が引き寄せた幸せや明媚が消えていくのが怖かった。

いや、これが死という終わりを表すのだろうか。ならば僕は死に怯えていた。



僕が消えたこの世界は、何一つ変わっていないないだろう。きっとこれからも美しい月夜が更けて、誰かはきっと壮麗な月を眺めて思いを馳せる。



そんな泡沫で夜陰にまぎれた僕の終生を、

貴方には笑ってほしいんです。

貴方が笑ってくれれば、まるで絵空事のようにもなる。もう少し時間があれば、もっと貴方の素晴らしさに気づいてあげられました。



無くなって初めて気づくその価値に、終わって知る本当の意味に。ここに貴方はいないけど、あの頃よりもずっと愛しています。




でもどうしてだろうか、これ程までに愛しい気持ちは止まないのに、どうして、鼻孔がしっかり記憶したはずの貴方の香りが徐々に薄れていくのだろうか。



どうして貴方の声がかすれていくのだろうか。



これが死か。



貴方がくれた温もりが奪われていくようで、

底のない深海に沈んでいく様だ。

暗い、冷たい。その中にポツリと光る何か。

不安にさせるような、嫌な光だ。



あれは、なんだ?

とても不安で何処かとても美しく綺麗な光。いくら手を伸ばしても届かない。

いや、手が届かないから、綺麗なんだ。

暗黒の中に昇る光。あれはまるで月の様。



そうか、あれは貴方だ。



もう貴方とは居られないんですね。



どうか、僕なんかよりも良い人と出会ってください。

僕は遠くに行ってしまうけれど。

貴方はどうか生きてください。





『ありがとう。』








《I can't get over you》


《My heart calls out for you》


《I’m yours forever…》