ADの主人公は今日も家に帰れない。
 作者の実体験を元に、ガラス張りの応接室から真夜中も昼間の様に働く人達を観察し、妄想し、眠りにつくまでの小さな話。

 こんな仕事はもう嫌だと何度思っただろうか。早朝からの仕事が入っているので帰りたくても帰れない。今からホテルに泊まっても、寝て起きるまであっという間だ。それならば職場のフロア内で使っていない部屋を借りて鍵を掛けてソファーに横になって朝を待つ方が効率的である。

 この業界の仕事に就いてもう数年が経つ。こんな事は珍しくもなんともない。好きでなったADの仕事に誇りを持ってはいるし、それでも辞めたいとは思わない。

 こんな時間、朝も夜も関係なく仕事をしている人達がいる事務所のホワイトボードに「応接室」と乱暴な文字で記入した。

「すみません、お先に寝ます」

 そう挨拶すると、あちらこちらから「お疲れ」「おやすみー」「明日もよろしくな」と声が上がる。こんなに人がいたのかと驚くが、そんなのはいつものことで、何人かはデスクに突っ伏して休んでいるので頭が見えないだけであった。

 誰も使わない応接室に大判のタオルを持ってタオルケット代わりにする。

 時刻は真夜中、業界用語で言う午前0時の「てっぺん」はとっくに超えていた。そういえば同期のADはまだスタジオから帰って来ていない。

 だが、ここからが唯一俺の楽しい時間でもあった。ここは有名なオフィスビルが立ち並ぶ都会のど真ん中であり、真夜中とはいってもまるで昼間のように車が行き交い、人が歩き、ビルの窓からは無数の灯りが溢れている。この応接室はガラス張りで、部屋の明かりを消しても街の光をダイレクトに受ける。

 趣味は真夜中の人間観察。こんな時間にやっと忙しい仕事を終え、静寂の時間を今過ごしている自分と同じ時間に、あの灯のついた窓の向こうで働いている人や、オシャレなバーで仲間と酒を酌み交わしている人、道路工事の警備をしている人、道路を掘り起こしている作業員がいる。そして向かいのビルの窓から見えるのはカップラーメンを啜りながらパソコンと向かい合っている男。

 それぞれが家に帰らず、それぞれがやらなければいけないことをやっている。一般的には誰もが熟睡している筈の真夜中に、こうして自分と同じく昼間のように働いて、笑って、しゃべって。

 毎晩この時間、応接室のガラス張りの窓から広がる世界は、静寂を知らない。

 世界は昼が夜を支えて、夜が昼を支えているのだ。俺は今から眠るけれども、昼を支えた身としてはこの時間は彼らにバトンタッチする。そして目が覚めた時、今こうして観察した彼らの姿は忽然と姿を消している。彼らは、真夜中の仕事人であり、それは極めて自然に、滑らかに、いつの間にかバトンを渡されている。

「さて、今日も人間観察完了。寝るか」

 明日になればきっと、あの工事中の道路は完成しているのかもしれない。そしてカップ麺を啜っていた彼が作った資料が、きっと朝イチの会議で大活躍するのだ。

 どこかで頑張っている彼らに心の中で「お先に失礼します、おやすみなさい」と呟いて、俺はゆっくりと目を閉じた。