「苦しいんだ」
ユズキは言った。
「昨日の夜も熱が出た」
病室の外では、うるさい位にセミが鳴いていた。
入院して二ヶ月。ユズキの具合は、あまり良くないようだった。
「いつも祈ってるの」
十六夜(いさよ)が言った。
「お兄ちゃんが、学校に戻れるようにって」
ユズキは、父親を早くに亡くし、母親の手ひとつで育てられた。母親が、仕事に出ている間、ユズキは近所の十六夜のうちに預けられることが多かった。
ユズキと十六夜は、兄と妹のようにして育った。
だから十六夜は、ユズキのことを、血が繋がってなくてもお兄ちゃんと呼ぶ。
「描きたいな」
ユズキが、ぽつりともらした。
ユズキは、絵画に秀でた才能を持っていた。
ユズキは、これまで児童画コンクールを総なめにしてきた。
「史上最年少! 十一歳の少年がN展佳作に」は、新聞やテレビのニュースにもなった。
ユズキと見ていると、天才とか神童と言うのは、本当にいるんだ、とそう思う。
「ちょっと下の売店に行ってくる」
十六夜が席をはずして、しばらくすると、ユズキは行った。
「なあ、トモヤ。俺には、もっともっと描きたいものが、たくさんあるんだ」
「これから描けばいいさ。おまえならきっと有名な画家になれる」
ユズキは、それには答えずに言った。
「トモヤ。俺は安らかに逝けるだろうか?」
「何、言ってるんだ! おまえ」
「おまえだから話すんだ。夢の途中で、未練を残したまま、俺は逝けるだろうか?」
「まるで最期みたいな言い方をする」
「俺にはわかるんだ。俺はもう駄目だ。だけど、もっと描きたい。それが悔しいんだ」
十六夜が売店から戻ってくるまで、ぼくらはだまったままでいた。
「トモヤ」
ある日、ぼくが病室に入ると、ユズキは真っ先に、こう声をかけてきた。
「一時外泊が許されたんだ! もっとも、次の日の夕方には、また病室に戻らなければならないんだけどな」
ユズキの声は、はずんでいた。
「俺は海を描いてみたいんだ。真夏の海を。トモヤ、十六夜。つきあってくれるか?」
「もちろんだ」
「良かったね。お兄ちゃん」
あくる日。ぼくと十六夜は、ユズキの車椅子を押して、海辺の街にまで出かけていった。
海に着くと、ユズキは時間を惜しむかのように、だまったまま、海岸の風景を何枚も何枚も描いた。
やがて、大きなため息をつくと、ユズキは言った。
「もっとどっしり絵の具をつけて、油もやってみたいけど、一日じゃ、これが限界だな」
ユズキの顔は、それでも輝いていた。
夕方、ユズキは病院へと戻った。
ぼくは、濃い霧の中を歩いていた。
ミルク色の霧が、手足にまとわりつき、ぼくはすっかり方向感覚がなくなってしまった。
やがて、霧が次第に晴れてきた。
巨大な森が水晶のようにそびえている。
それは、すきとおった森だった。