ビール
NATO記念ビール じゃなくてもそういう瓶とか欲しいわ……
普段お酒飲まないんですけど、飾るようのなんか無いかなぁ。。。
なとなと本編ですが、あれでも気分なるために悪く書こうとは思っていません。
本当にあったことの、本当にあった痛みを声だけになった断片でも
形として、ダイレクトな感覚というか、そのまま伝わるように
記録して、誰かに遺したいんです。まぁ、感じ方はそれぞれなんですけど、こういう痛みが存在する、という表現そのものを保管しているという感じです。
これもたぶん一部の人にしかわからないと思いますが、平和のためとか偽善的な意味ではありません。
自分がどうしようもなく鬱になっていたときがあってそのとき、もう自分が何をしてて何を考えているかどこにいるかわからなくて、それで、ふと犯罪事件のウィキとかブログとか哲学版とか見てたんですよね。もうそうするしかなかったというような痛みがすごい伝わってきて、自分だったらどうするかとか客観的に自分の苦しみとか考えていると、一度冷静になろうと思いました。俺みたいになるなというような当事者(自称)のものもあって、どんなに病んで居ても、自我がなくなっても、どう振舞えるかという部分で考えるきっかけになったんですね。
当時腕とか切っても痛みを感じない手前くらいまで感覚がどうしようもなく麻痺していたんですけど、傷の舐めあいでは無くて麻痺していた感覚がショックでちょっと、こう、戻るというか。
悲しみを感じられるかもしれないというレベルまで僅かに戻ってくる感じがあって、それで、痛みを遺しておくことが、どうしようもない鬱とかのときに、同じようにどうにもならないレベルで麻痺している人に悲しみが戻ってくるかもしれないと思いました。痛みを感じられるレベルまで回復して、やっと、自分が休むとか治療をうけるとか考えられるようになります。悲しみが存在すると言うこと、それ自体がなくなってしまうと、自分がどうにもならないくらい悲しい状況に陥ったときに、自分だけが悲しいんだと視野が狭くなってしまうし、受け止められるものが何もない。そしたら犯罪くらいしか浮かばなくなる。と、思っているので、遺しておきたくて書いています。
私も何も知らない頃は、鬱っぽい話が好きな人は変わり者で他人の不幸を喜ぶだけの陰湿な奴と思っていました。
でも、今は、どうしようもなく心が麻痺していて、せめて自分ではなく他人の悲しみを知ることでなら動くかもしれない心や、感じられるかもしれない悲しみもあるのかもしれない、それを必要とする面があるのかもしれないと思います。それは見下すとか傷をなめてマウントを取りたいとかではなくて、誰かの心と対等?になって考えてみたいとか、そういう意味です。どんなカウンセラーよりもそれは的確な部分があると思う。
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