学校が舞台の小説が好き
学校が舞台の小説が好き。
その理由を今まであまり深く考えたことが無かったけれど、改めて考えてみると少し面白いかもしれない。
社会人の荒波に揉まれに揉まれた私が、そのジャンルにこだわる理由。それは案外簡単に浮かんだ。
まずひとつは、こんなのやってられるかと
やけっぱちになってしまったための現実逃避。
現在の自分ともう戻ることの出来ない、限りなく非現実的な学校という存在。逃避するにこれほどまでにちょうどいい舞台もそうそうない。
もうひとつ、これが案外しっくりきた。
私なりの実感のそれは、仕事の悩み、将来の悩み、漠然とした不安に駆られて、
それこそ忘れ物を取りに帰るみたいに小説を通して学生の頃にタイムリープした気持ちになるから。
それは現在の悩みに区切りをつけるための何かを探しに帰ってきている………と言ったところで、実際にめちゃくちゃ活きたこと無いのだけれども。
まあ例えば、地球温暖化とか、環境破壊とか、そういう言うなれば抽象的な概念めいた物言いよりも、ゴミの分別をしましょうとか、エアコンの温度は28度の設定にしましょう………
てな感じで、具体化されていた方が分かりやすいのと同じように、
学校という縮図は社会を語るのに分かりやすい。
とは言っても、学校という限られた小さい世界から、突然、茫洋たる社会の海に放り出されてしまったのだ。
その小さな世界では活躍していたはずの方位磁針は、たちどころに全くの役立たずになって、不安だった。
少なくとも、私はそうだった。
先生と生徒という関係、学校の校則、時間割、先輩後輩。それらはどう考えても社会の縮図で、環境破壊を細分化すると、そのひと単位がゴミの分別であるように、社会も細分化するといずれは学校に行きつくだろう。
細かくすると分かりやすくて、具体的だ。
しかし、学校生活とは様々な人生イベントが濃縮されすぎて、私はおそらく色々取り落としている。学校生活の渦中にいる時には気づけなかったことも、その外へ一歩でてみると俯瞰でみると余計にそう思う。
しかしそれも今だから言えることだ。当時は、目の前のことばっかりで周りなんて全然見てなかった。特に私はそういうのに疎かった。
社会で悩んでいることも、学生時代に濃縮された形で出会っていてもおかしくない。
でも学生には、テストに、球技大会、席替えに、委員会、そんな目まぐるしいイベントだらけで、それらの悩みも時間がどんどん押し流していく。
指の隙間からスルスルとこぼれ落ちていることだろう。
それに比べると社会は時間の流れがゆっくりに感じる。悩んでも悩んでも答えの出ない問題にとりあえず答えなければならない状況がいくつもやってくる。
答えなんかでないのに、答えなくてはと焦る。それに学生時代みたいに時間はいくら待っても解決してくれない。
こんな他力本願な生き方は私だけかもしれないが、学生の頃は大抵時間が解決してくれた。
だから、社会人になってもう数年経つけれど、未だにくよくよ悩んでしまう。
そんな時に私は無意識に学校という縮図に助けを求めるのだろう。九分九厘、読んでも模範解答なんか返ってこない。
でも、ミステリーでも、お仕事小説でもなく、青春の中の物語が私の心を支えてくれる。小説はいつも私の取りこぼした学生生活を差し出してくれる。
つまり何が言いたいかと言うと
筆者、多忙につき、更新頻度低下中。
それではまた。
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