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むにえな

猫に餓え渇く者は幸いである。
その者は満たされるであろう。

猫は仕えるためでなく仕えられるために来られた。
天の国は猫のような者のためにある。

私たちではなく、猫よ、私たちではなく、御名が尊まれますように。

聖書を通読した感想

2022年4月23日から聖書の通読を始めて454日目の2023年7月20日に聖書を読み終わりました。だいたい1年3ヵ月ぐらいだったね。感想をメモしておく。

まず旧約聖書。 ここまで読んで最初に思い浮かぶ感想は「神様がいちばん魔王っぽかったな」ですな。基本的に「我に従え。さもなくば殺す」という態度な上、大洪水を起こしたり町に火と硫黄を降らせがち。戦争も活用する。逆に悪名高きサタンはたいしたことしてないな。エバに知恵の実を食べさせるようにそそのかしたけど。神に怒られたアダムが「エバのせいです」と言いそのエバは「蛇のせいです」と言うあたり、人間のやることは変わらないね。あとは「神への信仰は現世利益のためでは」とサタンが神に言ったときかな。神が「それなら義人ヨブを不幸にしてみろ」と言い出して、サタンが(神の許可のもとで)ヨブに不幸を与えたぐらいで。サタンが人命を奪ったのはヨブの家族数人かな。生ぬるいな。神様ならその間に世界を何度も滅ぼしかけたぞ。「それもこれもサタンが神に反逆したせい」と言ってた信徒はいたけどね。

わりと歴史や掟の話が多かったかな。神話の部分はけっこう少なかった印象がある。詩や格言集などもまぜつつ、あとは預言書で「不幸は神に逆らったからだ。神に立ち返れば幸せになる」とアジってたのが目立った。「エジプトから脱出できたのは神のおかげだからそれを忘れるな」というのは何度もあった。自己罪責化は自己特権化と裏表と永井均あたりが言ってた気がするけど、自分の不幸は神に逆らったからだそれというのも我らは神と特別の関係にあるからだ、で生き延びてきたのだと。

『世界のヘンな法律』に入りそうだったのは「安息日に薪を拾ったら町のみんなで石を投げつけてそいつを殺した」というのと「女性が町の中でレイプされたら男だけでなく被害者の女性も死刑。悲鳴を上げて助けを求めなかったからだ」みたいな感じの。あと、もみあげは剃りたがらないらしい。実によく分からない掟なのでイエス・キリストが「人のために安息日があるのだ」と言い出したのは分かるね。まあ、こういう掟で社会をまとめていた人たちからするとイエスの発言なんて社会への反乱だっただろうけど。

「神様が我々に約束の地を与えてくれた」と言いながらヨシュアとかが住民を騙し討ちで殺戮するの飛ばしてますな。海を割ったあのモーセも「民が偶像を崇めたから」とか言って同胞3千人を殺すぐらいだし。金の子牛を作って崇めた首謀者はモーセの兄で司祭のアロンに見えたけど、モーセはアロンを殺さない。はて?

神との交渉で面白かったのは「ソドムは滅ぼす」と神だかが言い出したときにアブラハムが「町には50人ぐらい善人がいるかも」と言い出したところ。「なら滅ぼさない」との答弁を引き出したら「もしかしたら40人かも。あるいは30人いたりして」とか言って「善人が10人いたら滅ぼさない」との言質を取ってた。まあ、結局はロトの家族だかだけ逃がして町を滅ぼすんだけどね。「善人が少数のときは善人を逃がしてから一網打尽でやるのが善人にとっても正当な裁きだ」と言ってた人はいるけど、神様というのは作った壺の出来が気に食わないと壺を叩き割るタイプの性格なのかもしれない。怖いね!

あとはモーセだかが神に交渉して「うちらが死んだらあなたは『民も救えない神なんだ』って言われるんですよ恵みをくれ。あくしろよ」みたいなとこも面白かったな。神様を脅していくとかなかなか交渉がうまいやん。エジプトから脱出したけど何十年も歩き回されたのは、モーセが道に迷ったからでは(?

旧約聖書は全体的に「神様の飛ばしっぷりが面白かった」といったところ。HELLSINGで少佐が「私の狂気は君たちの神が保証してくれるのか。ならば問おう。その神の正気は誰が保証してくれるんだね」みたいなことをイスカリオテ機関に言ってたけど分からんでもない発言だな。旧約聖書は読むぶんには面白かったね。

お次は新約聖書。なんか誰かが「旧約聖書の神は父性的で厳しいけど新約聖書になると母性的になるんだよ」みたいなことを言ってた気がするんだよね。ユングも神さまを精神分析して似たようなこと言ってた気もするし、旧約の神は嫌いだっていう信徒もいるみたいで。父というより魔王だったけど。

それはそれとしてイエス様もカナン人の女性だかに助けを求められたときは「私はイスラエルの失われた羊の元にしか遣わされていない」とか「子どものパンを犬にくれてやるだろうか」とかそんなこと言ってたりするんだよね。なんやねん。イエスもユダヤ人の他は救う気がなかった節があるのかしらね。イエスの死後はなんか弟子は世界中に布教し始めたけど。

そしてイエス様はおなかがすいてたのにイチジクに実がなってなかったら呪って枯らしてしまうとこもある。実のない季節だっていうのに! どうせ奇跡を起こすなら実を生み出したほうがいいと思うけどなぁ。まあ、神学的には救いがどうこうにつながるらしいね。他のおもしろ奇跡話だと、イエス様は悪霊を祓ってあげて、まあ、それはいいんだけど、その悪霊を豚2000頭だかに突っ込ませたりもしたんだよね。んで、豚さんは湖に身投げして死んでいく。その豚さんは飼い豚だよ! 悪霊が悪いんだろうけど! 豚は穢れた生き物らしいからかまわないのかなぁ…。豚を飼ってた異邦人は恐れて町に伝えて回ったんだっけかな。

あと弟子もなかなかすごいよね。サマリアだかどっかに行ったときにイエスが受け入れられなかったら、ヨハネとヤコブだっけか、そのあたりが「あいつらを天からの火で焼き尽くすように祈りましょうか」みたいなこと言うの。う~ん、さすが雷の子。放火犯もびっくりだね。

ユダヤ人は宗教的な救世主だけでなく政治的にも助けてくれる人を求めていた節があるけど、まあそれがイエスが幻滅されることにつながったようには見えたわけだが、そのイエスは「私は平和でなく剣をこの世に持ってきたのだ」みたいなこと言うんだよね。たぶんイエスは「周囲と揉めるだろうけど言わなきゃいけないことを伝えに来たんだ」みたいな意味で言ってたんだろうけど、う~ん、魔女狩りとか十字軍とか大航海して改宗だなんだとかを思い出してしまうのう。「家族との争いも持ってきたのだ」みたいなことをイエスは言うけど確かに家族間で宗教による争いなんて起きただろうなぁ。現代日本でも起きていることだし。

あとこれはただの趣味なんだけどいまいちパウロが好きじゃない。妙にケンカ腰に見えたのはまぁいいとしても、なんというか「お前は知らなかっただろうけどお前の多額の借金は俺たちの親分が払ってくれたんだぜ」と言いながら道徳や罪悪感をテコに新たな債権者になろうとしているように感じる。そんなに親分が愛のある人なら「救ってあげたんだぞ」と言って回りはしないのでは。パウロが布教して回っていることが神の愛を否定しているように感じた。このさい「女が教えることは許さない。女は黙ってろ。子どもを産めばそれで救われるんだ。女の頭は男で男の頭は神だ」とか言ってたのはあれだとしても(後世の挿入という説もあるみたいね

逆にイスカリオテのユダはなんか妄想がはかどって好きかも。ろくにイエスを理解していない弟子たちの中でユダだけがイエスの信仰を理解していて、その上で「主よ、あなたは神の愛を宣べ伝えますが人びとは奇跡とパンを求めているのではないでしょうか」って思ってるの。他の使徒なんて威勢のいいことばかり言うペトロとか、天の国に行ったらどっちが偉いかとか言いあってる弟子とかいてさ。イエスに高価な香油をかけた女性の話のところもそう。人々を救えるのは現実的な力じゃないのかとユダは思ってたのじゃないかなぁ。イエスを裏切ったのも司法取引みたいなことをしてイエスをなんとか生き延びさせようとしたのではないかなとか。聖書はすぐ「あいつらは嫉妬でやった」って決めつけるけど大祭司たちも暴動が起きたらローマに滅ぼされると怖がってたのではないかなと。ピラトもローマの後ろ盾が政情で怪しくなったのでなんとかなだめようとした流れで、そういう政局があったんだけど、結局はイエスが十字架にかかることになってさ。イエスが死刑と決まったときにユダは自分も死ななければいけないと、それが主に対する最後の愛だったのではないかと。そんなこと聖書には書いてないし、むしろ「ユダは悔い改めずに絶望したのが悪い」とか言いたげだし、なんならダンテは『神曲』でユダを地獄の最下層でスルメのようにサタンにかみ殺させ続けてた気もするんだけど、まあ、私のただの妄想でユダはけっこう好きだった。

黙示録はあれだね。書いてたヨハネは筆が乗って楽しかったのかなぁ…とか思いながら読んでた。パウロは「いつ来るかは知らんけど天の国はすぐ来るから生活は気にせず信仰に励むんだ」みたいなノリに見えたんだけど、ヨハネもけっこう飛ばしてるね。

そんなとこかな。まあ、聖書学とかそのへんがなんかきちんと解説してくれてるだろうから次はそのへんを調べてみるか。ところで聖書って食べたことはないんだけど、やっぱり口には甘くて腹には苦いのかな。誰か食べた人いる?

まとめ。なんか愛の書とかいって綺麗なことばかり書いてあるのかと思ってたら思ったより神様も信徒もぶっ飛んだことしてたような。聖書を読んで賢くなったかは分からないな。別に物事の道理が分かったわけでもないし。でも少しは知識がついたり、いろんなことを考えたような気もするなぁ。なんかイヤなことがあっても「そんな運命を私に出してきていいのか?私は聖書を通読した人間だぞ」とか内心で前よりうまく乗り越えられるかも。信仰が深まったかというと別にそんなこともなくて、むしろ「神様ってけっこう危ない奴なんでは?」という感想になった。信徒ってきちんと読んで信じてるものなのかね? でも、聖書が事実かはともかく、人間が生きることに立ち向かったときの叫びというか真実みたいな、人間の凝縮された蠢きみたいなのは感じたかもなぁ。確かに信仰の書ではあった。

聖書をみんなが読む必要があるかは分からないし、別に無理して読むもんでもない気はする。長いし。でも私はなんかすごく充実した1年3ヶ月だったし、少なくとも人生でいい話のネタにはなったなぁ。なので私としては聖書を通読してとてもよかった。立派な人間になれたかはともかくいい思い出だね。聖書に興味を持ったのは『narcissu SIDE 2nd』というホスピスを扱ったゲームからだけどそれからもいろんな人の縁で励ましてもらったなぁ。その意味ではやはり名著の古典だったんだろうね。

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