うちのシマだよ

作者okazakisucre

「田中っちスターン(船尾)へ!」

「あいさあー」

「気を付けろ、どてっぱらに横波が来るぜ!」

機械化と安全対策が進み、今や常に命がけというわけではない沿岸漁業だが、刻一刻と海の表情に合わせて変わる自らの位置、役割の把握を要求される、厳しい戦いに変わりはない。

渦を巻いて荒れ狂い、すべてを飲み込んだ翌朝、何事もなかったようにただ真っ青な素肌のみを見せる海。その思わせぶりな美女にのめり込むように、元大工、自衛官、運転手…人数としては少なくても、新規就漁希望者はあらゆる業界から絶えることなくやってくる。

代を重ねた漁家に指導権を握られ、自前の漁船を持つまでには気の遠くなるような下積みを強いられる徒弟体制、加えて貿易自由化でペイする魚種、漁法がすっかり限定された今では、仕事の殺伐とした過酷さから見て収入が全く割に合わない世界なのに、居着いてしまう者はむしろ他の第一次産業よりも多いとすら言える――そんな中で今日も夜明けから慌ただしい漁船の上で不気味に目立つ、一つの陰。


海の強さ、深さは太古の御代より変わることがない。だから、『板子一枚下は地獄』というのは今でも漁師という職業にとって真実である。上坂洋次はそのことを、今、別の意味で味わっていた。

漁業研修生になること自体は、省庁、自治体、財団法人と窓口がやたら多く、現場が後継者不足でもある昨今、それほど高いハードルではない。

まして洋次の動機は中年研修生にありがちな『釣り好きが嵩じて』とかいう軽いものではない…かどうかは黙して語らぬ彼だったが、少なくとも勤務内容、拘束時間、将来性、あらゆるデメリットを理解した上で就漁したはずである。

恐れていた船酔いなどは、二週間で治まった。だが、すぐに別の重圧が彼を押し潰した。

ここは年々過疎が進む県北端の長大な岩浜海岸を更に五〇㎞も離れた絶海の孤島、『三日月島』。

彼が修漁のために二ヶ月前辞めた企業の保養所がある葉山の一色海岸、また高校大学時代ディンギーでならした鵠沼海岸ではないのだ。

高度高速情報化社会の中で、もったいぶって問題提起することに慣れた――いや中毒になった都心の企業人にとって、単純な肉体だよりの作業が理屈抜きに右から左に矢継ぎ早にすっ飛んで行く漁師の世界は対極にある。

心ではわかっているが、体がついて行かない?いやそれならいずれ慣れるという救いもある。もっと悪いことに、本当は分かった演技をしているに過ぎない。

都会人の全生活を支えている浅はかなプライドは、ここでは致命的な障害となった。

荒ぶる神々の統治する島の海は、よそ者たる洋次の実存を揺るがす凶暴な力で、彼を確実に押し潰しつつあった。

夥しい海の幸を目の前でもたらしてくれる海。

だが反面、そこには危険と困難を伴う海外取材よりも、巧妙で悪意と策略に満ちたマーケティングよりも、はるかに難しい何かがあった。


「逃げるわけにはいかない。私の魂は島に帰らなくてはならない」

水揚げした魚たちもことごとく漁協に捌かれ、喧燥の治まった港の船。

唯一まともにできるようになった甲板の掃除をしながら、彼は低く呟いた。

「うん?なにかい?」

「いいえ、なにも…」

潮焼けして顔の隅々まで黒い皺に覆われた浜野塩一は、こいつ、辞めたいとは口が裂けても言わねえんだな、と首を振り振り、うっすらと本土の山脈を望む沖を見た。

大漁の代償ってわけじゃないだろうが、近ごろ研修生のほうはとんと不漁だな。

また若いぴんぴんしたのはこねえのかな。


車窓からの光が、白く、透き通るような肌を次々と舐めては去っていく。

十六年間、大出版社社員の息子として何の辛酸とて舐めてはこなかった世間知らずの上坂充だが、新幹線が切り裂く闇の中で、そんな父の今を明確に見抜いていた。

だから細い鼻のラインや、切れ長の瞳に落ちる影は底無しの穴のように暗かった。

『僕でさえ知っているのに』

と充は思った。

『どうしてお父さんは、今いる場所以外に居場所はないんだってことを認めようとしないのだろう』

運んできたエスプレッソに憂鬱げに口を付ける仕種に、上野駅地下の穴蔵のような事務所兼倉庫と、揺れる細長い車体を行き来する毎日を送っている、白く湿った肌のアテンダントは尻をすぼめ、瞳を潤ませた。

今宵の充は、客商売のけばだった雰囲気が肌の奥まで染み付いた十九歳の娘にとってすら、際だって美しかったのである。


「あーうめえ、一息ついた」

長距離トラックの助手席で、股を開いて缶コーヒーを一気飲み。

ハンドルを握りながら横目で杏を見る若きトラッカーの表情は、無防備な女子高生を見る目にしてはずいぶんと怯えている。

原野を一直線に貫くバイパスのど真ん中で、余り着崩していない見慣れない高校の制服を着た活きのいいヒッチハイク娘を拾った時には、いったんハンドルを握れば最低三十五時間は運転席に縛り付けられるこんな生活にも夢のようなことは起こるんだと思ったが――上がり込んできた杏が後ろの仮眠ベッドに置いたボストンからは、もぞもぞと小さなガキが生まれてきたのだ!

「ムラムラしてる?なんかしてもいいですよ」

「いやあ…おれ、ちょうどあの子ぐらいのガキンチョがいるんすよ。あー!虫雄君!交差点で目隠しはやめてー!」

「ぱぱ」

「そうなんだあ。私のボディーが嫌とかじゃなくて?」


「いやあ、モロ好みっすよ。男勝りの白マッチョデカパイ…いやいや、でもどうか心安らかにお休みください」

トラックはふらふらとけつを振りながら、三日月島への小さな客船『うみねこ』が長距離フェリー『へるめす』の陰でつくねんと待つフェリーターミナルの光に向けてひたすらに走り行く。


充とは、同じ客船の二等船室――要は雑魚寝広場で見事、鉢合わせした。

といおうか、週二便の船で、違うのになんか乗れやしない。

「杏さん!何できたのさ!」

「いやその、充君心配だし、思いつめるほうだから」

虫雄がいつもの甲高い声で

「美男子だからおっかけてきたの!イテー」

まだ固まっていない脳天に容赦なくげんこつが降る。

「あんた黙ってて。充君、どうするつもり?」

「おやじを…何でもいい、決断させたい。強気な電話が来ても口調でわかるんだ、うまくなんかいっていやしない。夜も眠れないよ。ウゲ」

船酔いで口にハンカチを当てる充…そんな姿さえうっとりするほど美しかった。

そう、追いかけてきた。

好きで好きでたまらなかった。

保育所で虫雄を拾った放課後、家にも寄らず帰りの船賃も持たず、途中は押しの一手のヒッチハイクでしのぎして、日本画家の父を健気に支える杏は突っ走ってきたのだ。

うずくまる充をムフムフと口許をほころばせて介抱しながら、ふと思った。

『漁船って一般的にもっと、はるかに揺れるよな』


「ぐおおおおー!」

「大丈夫?」

舳先に海面がせり上がった二十回目、充は耐え切れずのけぞって階段の下に転げ落ち、船倉でうつ伏せになって顔にタオルをかけている。

「おい色白少年、もう二度と乗るなよ。さもなきゃ脱水症状であの世行きだ。あんたも初めてなら休むかい、娘」

「いんややすまない」

トドラーの特権でいっこうに酔わない虫雄は揺れに合わせて飛び跳ねながら

「はたらかないと帰りの交通費もないもんね、イテー」

「底引き網は男の仕事じゃけん、厳しい本気の力勝負じゃ。網のここ持って、息合わせて、一気に引きずり上げるんだ。はいよいとまけ!」

杏はどりゃ!と網の端を手繰り上げる――

誰も付いてこない。一人で持ち上げた網の庭石のような重さに、杏は白目を剥いた。

「お…おもー!人間の仕事かこれ?」

「ねえちゃん冗談だって、そら昔の、もっと網がめんこかった頃の話で、今はウインチあんだからよ。今はこの世界にも専門の、先進の機械がたくさんあってな。海の上でどうあがいてもシロウトが助けになるわきゃないってことさ」

「ひ、ひどーい!役に立とうと思って頑張ったのにー」

「もったいねえ…たくましかおなごよのう。都会ではおなごが強いというがの」


船倉では充が相変わらずカエルのようにうずくまっている。

「あ、あたまん中墨流し…ど、どっちが上なんだあ」

「わかるだろ、レーダーあんじゃん」

「え?」

妙に際立つ早口の標準語に充が目を開けると、虫雄が機関士の膝の上で舵を握ってきゃあきゃあはしゃいでいた。

機関士は振り向きもせず、

「いじってみるか、青年」

「え?」

「いじってみたいだろう」

充がおそるおそる、漁船の舵を握る。

機関士がにやっと笑った。

「――む!これは」

充は瞳を輝かせて、舵を取った。

――唐突に船の速度が上がる。

甲板の漁師一同将棋倒しになり、杏が吹っ飛んで船尾に辛うじてしがみつき――さらに直球ど真ん中ストライクで虫雄の小さなおけつが顔面を直撃する。

「やまさーん、どうかしたかねー」

「しちゃねーよ、エアーポケットに過ぎんさ」

「ジェット機じゃねえだろ!やれやれ、板子一枚下は何とやらってなあ」

ひげオヤジどもはびしょ濡れになった甲板の上で体勢を立て直し、鍛え抜かれた極太の腕をまくりながら、しかし真っ白だなとまだ甲板に崩れ降ちたままの杏の引き締まった腕を見て、ついでジャージを捲り上げた太股を見入って――唾を飲んだ。

杏は一足後れで立ち上がり、冷たーい横目で野郎どもを見やり、

「ホームページは見させていただきましたけどね。私は残念ながら花嫁候補生で来たわけじゃありません」

と――杏は隅で暗くうずくまった人影に、目を留め、大きな瞳を歪めた。

世界を股にかけた取材で日焼けした、髭もじゃの厳しい横顔――しかしそれでいて、一見似通ったルックスの漁師たちからは最も遠いスタンス。

『充君のお父さんだ…この人だって、本気で来たんだろうに』

充はすっかり頬に赤味が差した精気ある姿勢で操縦席にしっかりと腰掛け、運転士に舵の取り方を教わっていた。

「潮の流れがあるから微妙におもかじ…とにかくこれは荷物積んでなんぼの典型的な排水型船、競艇のプレイニング=ハルみたいに、荷室のことなんぞ無視してケツだけつけて切れ味よく操縦できる船体じゃないってわけだ。柔らかい料理をなまくらな刃物で切り分けるっていうか…うんうんそんな感じだな。おめえ感覚的に俺と合うな?上がったら綱の結び方を教えちゃる。実に難しいぜ。さ、船酔いはどうだ?」

「や、何と自分で運転してるとゼンゼン全く酔わないっす」

「俺もそうだったんだよ。村でも最古の網元の息子なのに、係留してある船に上っただけで酔いまくってさ、すんげートラウマ抱えて…それでも一応逃げずに東京商船大学で操縦を覚えて、怖い海も計器を通して接すると酔わないことがわかったのさ。部活はパソコンゲーム同好会だったけどな、ははは」

「確かに、自分も路線バスには酔うのに自分でレーシングカートを操ると平気なのです。ところでこのレーダー、ずいぶんきれいな画面ですね。鮮明な色彩、直感的かつビジュアルなモニター…教科書に出てくる魚群探知機と随分違う」

「あたぼうよ、漁民はいつも最先端!金遣い荒いともいうがな」

操舵はもちろんレーシングカートとはレスポンスが違うが、速度調整やターンの手法は基本的に同じようであった。

充は早くも、竜骨やハルと一体化して波を味わう自分を感じていた。

「うまいね。あんた潮の動きも読めるの!」

「車の横風と同じようなものだと思います」

「おいおい、それであんた漁群の真上に一発で止めるの!まあちょっとずれてるがな」

「あれ、さっき底引き網だからずらせって言ったじゃないですか。止めちゃいけなかったですか」

「ああ、そうでしたそうでした!君、俺なら明日からでも雇いたいね。ま、そうは言ってもここの仕事はこれだけじゃねえからな。これ以上やって海難事故も怖いから今日はここまでだ」

「ありがとうございました!うげげ!」

「舵を離したとたんに酔うのがたまにきずだがな…」


船団が鮮やかな大漁旗をたてて港に凱旋する。

「あ、ぱぱ」

二才にもならないぷくぷくの珊瑚ちゃん(これじゃ戸籍に登録できない漢字ばっか)が小さな指で船の舳先を指差した。

「いやあ、よくシケなかったよ」

「なんで?」

「だってよお、女を漁に連れて行くなんてなあ」

隣で身を乗り出した杏が目を剥いて、それにつられて人権教育に毒された首都一族も

「あー、なんだ男女差別ですか」

「さべつだめだめよ、てはおひざ」

「さべつうげうげっすよ」

ひげおやじは慌てて

「いやいやそーじゃねえよ!このめえの津波の時だって、じっちゃによれば全く同じシチュエーションだったじゃねえか。皆が赤痢でダウンしたのに空前の群来が来て、やむなくガタイのええ柔道部のおなごを…」

「辰やめろって。コトダマ、コトダマ」

男たちは声をかけられないほど真剣に怯えた表情で、杏はそれ以上何も聞けなかった…。


青空、太陽、カモメたち――

島には信号一つない。

いい雰囲気で並んで歩く充と杏に、虫雄は探偵みたいにかくれんぼしながらついていった。

それもちゃっかり、仲良しになった小さな珊瑚ちゃんと手を繋いで…。

「まさか追いかけてくるなんてね」

「杏は行動派ですから」

腰が折れそうに細い充の横で、ナイスバディーの杏は腰を振る。

「…僕さ、女の子と付き合うとかわかんないよ。杏さんのことも本当にはわかってないんだから」

小さな岬にわざとらしく設えられた、カリヨン塔まである『小さな詩人公園』までくると、ぽこぽこに舗装された村道は呆気なく黒い岩肌に消えていた。

あとはただ、まばゆいほどに美しい、自然のままの浜の風景だ。

さざなみも、海に流れ込む小さな川面も、ただ陽光に煌いて長旅に疲れた二人の目に滲んだ。

不思議なものだ。

海というステージは何時のものかわからないようなビール缶も、擦り減った牛乳瓶も、ロマンティックな小道具にしてくれる。

薄っぺらいが、磨き抜かれたまっくろな石碑に刻まれた活字。

『文永三年…元禄…明治二十五年…昭和八年、そして昭和二十二年三月四日。この三日月島は定期的に、海底地震に伴う大規模な津波を被ってきた。

地形的に最も危険なことは承知しつつも、険しい岩山のせいで三日月湾内に集落を形成せざるを得ない村の被害は、常にほぼ全壊を免れえなかった。

現在ようやく最新の技術により、総工費三十五億二千七百万円、完成まで七年の計画で大規模な防潮堤を建設中である。この堤防は最新の技術を駆使して…○○建設が…完成した暁にはこの場所に総面積…の大浴場付きの堤防記念館が建設予定である。

三日月村教育委員会』

「公共投資かあ」

充がふと呟く。

「公共投資になんかあるの?」

「きょうびはたいてい、ただの公共投資じゃ過疎は解決できないってこと」

振り向けば、一本道の両脇に我も我もと立ち並ぶ漁民たちの三階建てのどでかい屋敷、しかしそれだけに人気の無さが際立つ、古びた町並み。

本土からあまたのヤン衆をかき集め、底無しの豊漁に沸いた昔日の繁栄が仄見えるだけに、この島の現在の厳しさが窺えた。

「あーむ…それはそれとして、どう?漁業協同組合長さんに招待されているんだけど」


組合長の真っ白い眉や口髭、ことにふさふさと胸に垂れる見事なあごひげは古老の雰囲気を醸し出していたが、瀟洒な白い洋館も、彼自身の湘南のヨットオーナー風の服も、抜群にモダンだった。

「お二人ともお若いのに、こんなにすぐ海に慣れる者も容易におりませんぞ、あっぱれじゃ」

「はあ」

「ですがな娘さん、島の者になれとは、私には言えんのです」

「ああ、それありがちですよね、嫁にこいとか何とか」

「漁はね、わしらの村では男のもんです。女は、街のお方がたは差別とかいろいろ言われるんでしょうが、やはり浜で恭しく船を迎える役目なんです」

「んでもって、育児とか家事をやるわけですね」

「そうそう、しかもそこですら近所の奥さん一同に会しての、見えざるピラミッド構造に悩まされるわけです。それは都会の者には到底飲めない相談だと思いますが、いかがでしょうか」

「その通りですね」

「男はいいのですよ、いずこに行っても、とどのつまり一生を仕事に打ち込むしかないのですからね」

「ぼ、ぼくはどうでしょう?」

「否定されたいかね?ところが君みたいな男は案外必要なのだ。地域に密着とかいっても、金融ずれした漁協の事務方と肉体派の現場の漁師は考え方があまりにも違うからね。今後この島を生き残らせるとして、観光や直売を推進するにしても必ず利権争いが起こるだろうから、必然公平な感覚の、余り自己主張の塊ではない者が必要となってきますわな」

「じゃあ、お父さんのほうは…」

「極めて難しいでしょうね――確かにここの漁は融通の効かん古い職人芸を引きずっておりましてな、じゃが彼の場合ここに限らないと思う」

「ちょっとお二人よろしいですか」

おっぱいがすごく大きなナマハゲみたいなおばはんが顔から部屋に突っ込んできた。

「明日は漁が大きい日で、だんなの手伝いに駆り出される保母が多いんで手伝って欲しいんだわさ」

「これからですか?」

「そお、うちの保育所はそういう時はいつでもお泊まり保育なの。おまけにじいさんばあさんもいるんだわさ、ガハハハ」

それ笑うとこか?と二人、顔を見合わせる。

「はあ…まあ虫雄もいるし、わたし的にはいつもの拡張バージョンに過ぎんわな」

「ガルルルル、おりは名門村森学園幼稚部のキリン組だじょ!」

「漁が大きい?村人総出なのですか」

「うむ。近年まれに見る、料亭向けの最高級魚の大群来が沿岸に来ておって、一世一代のチャンスなのです。ただ――」

組合長は目を伏せて

「近ごろとんとスズメやネズミを見ないのがどうも気がかりです」


方々にひびが入った飾り気のない平屋の『三日月村立南灘季節保育所』は、踏み段付きの大人の便器一つとってもあからさまに他施設の転用である。メンバーも保母とはいっても高校すらない島を一歩も出たことのないご面々、村役場や村議会がいくら認めようと、これはずばり児童福祉法上の『無認可』託児施設に過ぎない。

ひしめく子供の頭数はゆうに五十を超えるだろう。

もう区立の施設で三年間も保育ボランティアをやっている充だが、スーパー未満児すら保母一人、お手伝いの充と杏の二人で看るほどの定数無視は聞いたことすらない。

だが、本当に信じられないのはこの状態でも、年上の子供が年下を順繰りに寝かしつけてなんとか場を収めているいる自主性だった。保育は人間の本能、やれば何とかできるものなのである。

「充君、子供寝かし付けるの上手だね。はいどんじゃら!」

「うわー、やらりた」

ハアハア息をつきながら美砂ちゃん、

「あんずせんせいあのね、リンクがどしてもつぎのおへやにすすめないの」

「テレビゲームかや。おっしゃ、わたしにまかしとき。ぶったたけば何とかなるわい」

「こんな夜中に子供興奮させてどうするの!」

「そんなもん学校で寝りゃいいの。おじいさまたちは?」

「わたしらおとなしく寝ますから」

「てゆーか、村の人こんなに邪魔にしなくてもいいのにね。皆さんは漁の時は港にいたいんじゃありません?」

「…本音はな…じゃがの、いろいろやり方も変わって、漁場に年寄りの居場所がないんじゃよ」

「定めじゃの」

「うう、一転湿った雰囲気…いや、これ本当に湿ってんじゃん!ヤダ、木流(キール?)君おしっこ!」

「ほらね、はしゃぐから」


午前二時。

深い、息詰まるような空気。

深い、底知れぬ闇から、そいつは大気の閉塞を突如打ち破った。

最初の縦揺れはむしろ、心地よいとすら思える切れのいいバウンドだった。

みんなが毛布にくるまったまま五回、背中を床から浮かせた。

そして直後、部屋中をみきみきとかき回すような圧倒的なパワーの横揺れ――

だが余り家具のない大広間では物が倒れた音も殆どせず、みんな面倒くさそうに目を閉じる。

「ううう」

押し殺したうめき声に、杏がはっと目を開ける。

大きな部屋の、ぽつんと離れた片隅に寝ていた保母さんが、重い黒ずんだ箪笥に脚を挟まれていた。

駆け寄ろうとする杏に、しかし目尻に皺の寄った浅黒い保母は大きく首を振った。

「近づかんといて!あんたら、子どもたちをどうかよろしく。ああ…来たわ、黒い大きな波が――」

恐怖にこわばった顔で天を仰ぎ、手を合わせた保母の上に、天上と壁を一瞬で突き破り、次々と大岩が雪崩れ落ちた。

血や残虐な場面を見ることもなく、一秒もしないで保母の体は押し潰され、片手だけが岩から突き出て断末魔に喘いだ。

「ありり、おっかあかくれちゃった、びっくりだあ」

「ダメーー!見ないでーー!」

杏は目をこすりながら枕片手に起き出した保母と顔がそっくりの、まだ二歳にもならない子供をぎゅっと抱き締め、涙をぽろぽろこぼしながら

「私、がんばるっ!この子達を助けられるのは私だけだもん」


泣き顔を見られまいと懸命に外に飛び出した杏は、後からぱらぱらと眠い目をこすって飛び出してきた充や子どもたちと共に立ちすくんだ。

見慣れぬ、命のない山脈だ――

今の大揺れで何と、発破をかけたように奇麗に崩れ去った裏山は託児所の建物を半分埋めた上、海岸線の遥か遠くまで、鋭い岩山と化して道を塞ぎ、市街地や港と杏たちを完全に分断してしまったのだ!

三方を切り立った崖で囲まれ、残るはしきりと荒れ狂う、黒い波。

息詰まるような、青黒い断崖だ。

だがもとからあるそこだけはやや勾配が緩く、金具でしっかりと綱が打ち付けられた足場になっている。

浩々と月に照らし出されたそこだけが、今は命につながるただ一つの道だった。

杏は年長組の少年に

「友一君、ここは上れる?」

「こりは大人の人がこんな夜更けにお祭りの行事で、えっちらおっちら登って上の広場で飲みまくる『男坂』です。その後、夜明けにぐでんぐでんになって吐きながら裏の普通の山道で町に下りるのです」

「そっか…君たちできるかなあ」

「うん。だいじょぶ。ぼくはやったことある。ただしあの金具ってそんなにしっかりしてません」

携帯に見入っていた充が髪を靡かせて勢いよく振り向き、

「津波が迫っている。あと、約三十分――今調べたんだ」

「はやっ!…よおし、みんなこの綱につかまって、私についてきて!」

杏はエプロンを闇の彼方に脱ぎ捨て、腕を捲った。


「あんたさんは津波は知っとるかいの」

「あー、十五のころかの」

「あの頃はすばしっこかったからのう」

「八海神様がお迎えにきたんかもしれんの」

豆のような子どもたちが団子になってのろのろと登攀していく崖を見上げながらの老人たちの会話を聞きながら、充は『駄目じゃん』と思った。

誰もわざわざ苦労して、墜落の危険がある崖を攀じ登ってまで長生きしようとは思っていそうになかった。

何より充自身が憔悴しきっていた。

何の落ち度もない保母さんは瓦礫に押し潰されて、一瞬で息絶えたのだ。

のこのこと見知らぬ土地に刺さり込んできた自分たちばかりが無事に生き延びられること自体、余り理屈に適っていないような気がしたのだ。