昨夜の豪雨のため、当初の予定を大幅に遅れていた。
ドロドロになった汚物をかきわけて、労働者の
急ぐ中 公女シオン・ナーシーを乗せた馬車は
スラムに近い中心部へと到着した。
今日、この日は1759年12月25日。
先王の喪の明けぬままの、聖夜であった。
大英帝国の中枢を担う、紡績の都市マンチェスターの
北東部、薄暗いユダヤ人街、ここよりすべてが
始まる。
彼ら、ユダヤ人は日々、ゴミを漁り、物を乞うて暮らしていた。
スリや強盗、売春に身をやつす者も少なくなく、
一般の彼らではない人々は、流行り病のように扱っていた。
この物語の主人公 マイヤー・アムシェル・バウアー、
後に金融王、最高賢哲ロートシルトと呼ばれる、聡明で
臆病な、天賦の才を持った15歳の青年もまた、
ここにいた。
「全知の王、ヤハウェよ。あなたは見捨てられた。
全能なる神 ナーシーよ。あなたの驚くべき御業は
どこにあるのでしょう。
ギデオン王のように、かつて海を割かったモーセス王
のような力はどこにあるのでしょう。
おお、イスラエル、我が主、ヤハウェ・ナーシーよ。」
後にマンチェスターの大火災と呼ばれる、一連の事件は、
大恐慌の厄災として、今なお、シナゴークの壁に
傷跡を残している。
屋外では、すでに戴冠式の準備が整い、
聖ウエストミンスター寺院の広場には
大勢の貴族が集い、リボンや風船などが飛び交う中、
大物貴族の中にあって、そのオリエンタルな
気品は周囲の注目を集めていた。
しかし、貴族たちはその艶やかな姿かたちとは
裏腹に有色人種のユダヤ人ゆえか、オスマン=トルコの
威光をもってしても変えがたい、特有の扱いを受けていた。
おざなりに、スルタン=カリフからの祝辞が読まれ、
ホーフユーゲンである、オッペンハイム卿が彼女をもてなした。
「聖イエスの名において、汝
ジョージ3世を国家の守護者とし、
ヘンリー=テューダー以降のこの
偉大なる大英帝国の繁栄を祈らん。」
( ここの様子は理解しがたいわね。)
シオンは内心思った。
( オスマン=トルコ帝国の名代であるわたくしを
何か別の生き物を見るように! )
( 彼らはオスマン=トルコの権勢をかつての
恩を忘れたのかしら?)
オスマンの名代である彼女の特権、
王との直接会話。
シオンは静かに切り出した。
「国王陛下、昨今の、ゲットー襲撃、大火災と
我々、ユダヤ人に厄難が降りかかりました。
帝国政府として公的な援助をお願いしたく思っております。」
新国王 ジョージ3世は言った。
「昨年からの大恐慌で、わが国の財政は逼迫しております。
シオン姫、ご協力したいのですが、無理なのです。」
「銀の価値が暴騰し、市中に銀貨が出回らないからですね。
それについて、お耳に入れたいことが。」
ホイッグの頭領、ラッセル公が後押しするようにこう叫んだ。
「一介の貿易商であった、我が祖ジョン・ラッセルが
救国の英雄となり、貴族に列せられたのは、
オスマン帝国ペルギーネ、ヨセフ・ナーシー公の
御助力あってのこと。」
「また、フッガー家が免罪符を発行させ、
神聖ローマ帝国を財政破綻に追い込まねば、
今のわが国は、存在していないでしょう。」
「我々、プロテスタントはご恩を忘れておりません。」
トーリーの頭領、モンタギュー公は返した。
「故に、我々はユダヤ人に寛容すぎるのです。」
シオンは言った。
「寛容、あのゲットーがですか?私がどういった
生活をしているかご存じないようですのに。」
モンタギュー
「パリやフランクフルトに比べれば天国ですよ。」
シオン
「どうしても信用していただけないのであれば、
私が質となりましょう。
時計の対価は王家と同様、そうでしたよね。」
ジョージ3世
「私も見てみたいな。シオン姫の普段の暮らしを。
ゲットーをお伺いしてもよろしいですか?」
シオン
「是非、お願いいたします。それでは、ごきげんよう。」
「姫、迎えのものが参りました。」
ギデオンはキリスト教徒であり、ユダヤ人であった。
それ故に、ここに、ユダヤの(王)かつての
サンヘドリン、イエスキリストを架刑に処した存在が
存在することの意味を鑑み、華麗なウエストミンスター
大寺院から、薄暗いゲットー=監獄へと彼女の身柄を
移した。