ひゃくにちクロコダイル
こんにちは。
今日は久しぶりにひぃちゃんの夢を見ました。
なぜかあーちゃんの運転する車でひぃちゃんちに遊びに行くようで(あーちゃんは免許を持って無い。いつも私が運転している)家も実際の家では無く、夢の中のオリジナルの家だった。
朱色のセーターを着たひぃちゃんが、待っていてくれて、会った時すぐに「あれ?まだ生きてたっけ?死んでたっけ?」と思って、とりあえず抱き付いてオイオイ泣いた。
まだストーマ(人工肛門)も付けていなくて治療による副作用で体重が増える前のひぃちゃんだった。
見慣れないセーターを着ていて、朱色の首回りが少し広く開いたセーターで、首回りの部分に襟ではないけれど、セーターと同じ糸で三角形が一周ぐるりと編まれたデザイン。(河童のお皿の周りのようというか、花びらのようにというか、イチゴのヘタとしいうか……)
そんな洋服を着ているところを見たこともないし、そもそもそんなデザインを見たことないのに不思議だなぁと、起きてから編み方なんかを考えてた(編み物好きなんで……。普通にメリヤス編みだと丸まるから無理だよな、とか。)
夢は不思議なものなので、不思議がいっぱいなのはいいのだけれど、なんで今夢でひぃちゃん見たんだろう。
起きてからもまだ生きている感というか、さっきまで一緒にいた感がすごくて。
夢で逢うというのは、本当に不思議な感覚です。
脳が見せているのに、脳が騙される。
どうして、ひぃちゃんの夢を見たのか。
はっきりとは分からないけれど、多分このエッセイが100回を超えて、百日後に死ぬクロコダイルの話を思い出したからだろう。
100話を越えてすぐの頃は、そんなに感じていないかったのだけれど、なんだか百日なんてあっという間で。
百日毎日更新なんて短すぎて。やっていなかった時は、あの話を見て百日の更新はなかなか大変だぞ、と思っていたけれど全然そんなことなくて。
なぜそこでひぃちゃんと繋がるかというと、あのSNSに上げられた漫画の話をひぃちゃんともした事があったのだ。
何も死を匂わせる事のない、他愛のない日常の漫画。退屈なほど何もない穏やかな日々。
しかし百日後に死ぬと宣言されていて、それは揺るぎない事実。
私たちは百日後に何が起こるかを知っていて、登場人物たちは何も知らない。
その話を漫画の登場人物の様に、何も確証が無くても自分はまだまだこの先も生きるんだろうと思っている人と、タイムリミットが迫っている事を知っている人の感じ方の違い。
これは読者が百日後に死ぬって知っている俯瞰した目線とも違ったようだ。
そりゃそうだとは思うけれど、当事者の目線という物は「知っているだけの人間」と天地との開きがある。
私たちが「こんな感じだろう」と当事者の思考を予測するのとも、かなりの開きがあるようだった。
そうなってみないと分からないという事だろう。
お互いに、細かい事まで言及しなかったけれど。
お互いに、その話は浅い所で切り上げたい気持ちが有ったと思う。
余命半年、いや、上手くいって半年と言われていたから、半年以内に死ぬよと言われているのだ。
今さらだけれど、よく平常心で……違うな、よく私たちに笑顔を見せてくれていたなぁ。
よく物語で「余命一年」「余命半年」という括りの話があって、それに対して「そんな余命でこんなに普通の暮らしをしているはずはない」みたいな感想を入れる方がいるけれど、リアルにできます。
そういう人を知っている。
大体の場合が、最後の一か月前後がすごく早い。
病気の種類にもよるだろうけれど、それまでは普通に電車に乗ったりバスに乗ったりできると思う。
ただ、それが出来るのはきっと、心が強い人だけ。
あの時、あれ以上クロコダイルの話をしたら、どうなっただろう。
お互い泣いたり怒ったりしたかもしれない。
心に鎧を着て何とか保っている精神状態をそのままでいさせた方が良いのか、裸にさせた方が良いのか、未だに分からない。
どっちが正解だったんだろう。
聞いてあげるべきだったんだろうか……、聞かないで楽しい話をしてケラケラ笑っているべきだったんだろうか。
その答えはきっと、自分がそうなってみないと分からないと思う。
いや、なってもわからないかもしれないな。
とりあえず言えるのは私の夢の中で他界した人と会うスキルが上がって来て、もう会えない人だとすぐに気が付くようになってきたようだ。
※ひぃちゃんとあーちゃんについて詳しく知りたい方は、私が書いた「ひぃちゃん、づれづれ」をご覧ください。
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