昭和中期 ある年の秋の出来事であった。
田舎の一本道を一台のバスが走っていた。
右手には砂浜が広がり、左手には木々が生い茂る林がつづく。
見事に茂っていた木々たちが紅色に染まり、風に揺れながらその人を出迎えていた。
期待を胸に嫁いできた芳江。
工藤家、大野家。両家の同意のもと、彼女の嫁ぎ先は漁業を生業とする工藤家と決まっていた。
挨拶にきた工藤正一に一目惚れをした大野芳江は、彼と夫婦になることを楽しみに夢を膨らませていた。
それから一年と少しの時間を経て、晴れて結婚式を迎えたふたり。
しかし、夫の表情は暗く正気がない。
彼には人前には見せない裏の顔があった。
「まだ間に合うよ。離縁するかい?」
初夜の晩に夫は妻に問いかける。
彼には妻の他に生涯忘れる事が出来ない女性がいたのだった。