13章までを模写してみて
最初に断っておくと、この文章は素面で書かれていない。焼酎の梅酒割という、酒を酒で割り水は足さずそもそも割ったのかなどの意味の分からない代物と、YouTubeで聴き漁った大音量のDTMの電子音に酔って書いた文章だし、「素面」を「シラク」と五回は打ち込んでやっとここまで縺れ足でやってきた文章である。
今日は、そんな状態なので1章しか模写できなかった。しかし、酔った者特有の高揚感によって、今私は最高の発見をした気分である、明日は二日酔いの頭の痛みに耐えながら、「なんだ、この怪文書は」とこの文章を眺める身であるにも関わらず。
14章の文章の特筆すべきところは、文の意味の暴力性の飛躍、というか、意味が過剰になってしまうあまり。「そんなわけないだろ」と突っ込みを入れながら、不覚にもクスリと笑わされるみたいなところだろう。
ファウルズの町にやって来る(落下してくる)落下者を記録するにあたり、淡々と肉塊の配置を筆記するもの、挿絵を描き出すもの、そこまではまだわかる。しかし、油絵まで描くってなんだ。そんなわけないだろ。そう思いつつ、どこかで笑ってしまう。人間だった肉塊を描いた悲惨な油絵など、文芸でなければ悪趣味すぎて直視できないし、悲鳴を上げて吐瀉物の噴水の水源にでも化してしまうところだが、円城さんの文芸はそういう暴力的なところがシュールな笑いを誘うのだと思う。
文芸もまた芸という名を冠する限り、どこか根源のところで芸として人を笑わすべきであるというのが恐らく円城さん文学の根底にある主義主張であり、その乾いた暴力的で皮肉的な表現が、私の琴線に引っかかる。若しくは、私が、残酷とも取れる表現に陰惨さよりも軽妙さを感じている不道徳な自分を第三者から発見して違和感や背徳感に戸惑っている、そんな快感を引き起こす、と言ってもいい。どうやら、世間とこの文学のずれを発見してしまった緊張感が、私に笑いを引き起こす。
勿論、円城さんは人としてずれているからそういう文章を生成するわけではなくて、どうしたらずれるかを知っていてこの芸当をするわけである。多分私の間違いは、円城文学のように感じようとしたことである。円城文学のようにずらせよ、そこは、と言ってみるが、まだ私は知らなかったのだから仕方がない。
とりあえず、今日は眠いのでここまで!おやすみなさい。
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