悪魔と天使 episode 2
『ゆきちゃん、ゆき』
気持ちの悪い声がする。
『君は綺麗だなぁ、いい子だね、』
舐めるような声に、荒い息、思い出すだけで吐き気がする。
裸体の男が頬を撫でる。何も言わない私を見て、息を荒くするその姿に吐き気がした。
『ゆきが俺の言うことを聞く間は金はいくらでも足してあげる。借金があるんだろ?』
救いのように吐く言葉は、ただの脅し文句だ。
『ゆきは顔も可愛いし、その表情もいつだって綺麗だ。』
組み敷かれる私を男は見下ろす。感情のない瞳を見て、興奮する男はただただ気色悪い。
『逃げたりしたらダメだからな、そんなことしたら今までの写真も全部、売り飛ばすから』
ここは、なんていう地獄だろうか。
鼻が潰れるような強い香水、荒い息、薄暗い中の怪しい光、朦朧とした視界の中で、覚えのある感覚に頭が冴えてきた。
「ああ、起きたかい?ゆきちゃん」
その声にゾワッと悪寒が走った。目を開ければ、目の前には豚がいた。頭に髪は薄く、セットしてあるにも関わらず脳天に毛は無い。
まるまると太った体は上半身裸で、私の上に跨っていた。
至近距離に見えた男の顔は、私が薄目を開けたのを見て、大きな口を開けて笑う。
パンッ!!
瞬間、頬を叩かれた。
「どこに行ってたんだ、ゆき!!店も、辞めろとは言っていたが、店にもいないじゃないか。」
息を荒くして言う豚は、そう言って私の体をまさぐる。体が反射的に動いて、手首に痛みが走った。
縛られていることに、気がついた時には頭が痛くなった。
周りを見れば、派手な内装に下品なシャンデリアが見える。チラリ、と横を見れば大窓がある。あの大窓はマジックミラーになっていて、その向こうにはミラーボールが見える。
ここは、この社長が気に入ってるクラブのVIPルームだ。彼がよくこの店に金を落としてくれるから、彼の好きな様にこの部屋を使わせてくれているらしい。
女を連れ込んだり、薬をやったり、この豚の自由なこと。
厚い扉の前には用心棒が立っていた。人が見ているところで、ヤろうとする悪趣味野郎か、あの用心棒が私に手を出したことを知っていての見せしめか。どちらかは知らない。
逃げようとしたって、どうせ、あの扉の向こうにも豚社長の手下は何人もいる。この店の人間も息がかかってるから、何の意味もない。
地獄との再会に絶望したところで、豚の手が胸元に回ってきた。
「それになんだ?この服は。ゆきらしくない、俺があげた服はどうした?」
黒いシャツに白いパンツ、双子の白髪が用意した格好に震えるように怒る。シャツの胸元を掴んでそのまま、ビリッと音を立てて引きちぎった。
無論、中も、双子の白髪が用意したものだから、豚は更に怒りに震えたのか腕を震わせる。
「このメス豚!!次の男か!!金払いのいい男ができて逃げたのか!?ああ!?」
馬乗りになって私の頬を叩いた。バチンッと激しい音がその空間に響く。私は叩かれるがままにぼうと宙を見つめていた。
毛の濃い男の太い腕が私に伸びてくる。グッとそのまま、喉を掴まれた。
「お前に金を注ぎ込んでやったのは誰だと思ってる?えぇ?今ここでこうして生きていられるのは、誰のおかげだ?」
ギリ、と首を絞められ顔が歪む。私の顔が歪んだことを喜んだのか、少し男の顔が綻んだ。
「借金を肩代わりしてやると言った恩を忘れたのか?挙句、逃げ出しやがって他の男のところに転がり込むだと!?」
息を荒くして吐き捨てるから、顔に唾が飛ぶ。酒が回ってるのか薬が回ってるのか、だんだん呂律が回らず目の視点も合わなくなってきている。
めんどうだ、この茶番をとっとと終わらせたい。
誘うように足を動かして、男の太い脚に擦り付ける。それに気がついて男がこちらを見た。私は、男と目が合ってじっと見つめ、少しだけ微笑む。
「ハッ!!やっと気がついたか、自分の主人が誰か」
男は顔を綻ばさて、毛むくじゃらな腕を伸ばして、私のシャツを脱がそうとする。
どうせ、反感を買ったところで、金払いが悪くなるだけだ。
「……ーーー。」
でも、そう思った時にふと、気がついた。
借金は無くなってしまったのだ、と。
また絶望が襲いかかってくる。借金が無い今、私がコイツの奴隷でいる理由はなんだろうか、何のために私はここにいるのだろうか。
ボタンを外され、薄い私の体がベッドの上に顕になる。這い回る男の腕は、覚えのある気持ちの悪い感触を、体に思い出させる。
…ああ、でも、そうか、知ってる。
父親が私の目の前で死んだあの時から、ずっと知っている感覚。
望まない地獄は着々と足元から迫ってくる。
抗うことを許されず、侵食するように私の体を蝕む。
心も体も腐って、考えることを放棄して気がつけば、言葉を紡ぐことも無くなった。
死ねるなら、死にたいのだ。
でも、私はきっと、死に際すら選べない。
バァァンッッ!!!!
その瞬間、爆音が響いた。ビクッと全員の動きが止まり、音のする方を見る。大窓の向こうからだ。
人が犇めくその空間に、
「きゃあああーー!!」「うわっ!?」「うわあああ!!逃げろ!!」
不穏な悲鳴が響き渡る。
「なにごとだっ!?確認しろ!!」
豚は体を起こして、用心棒に尋ねた。慌てた彼が扉を開けようとすれば、
「し、失礼します!」
店の店員が血相を変えて扉を開けた。豚はそれを見て、「何事だ!!」と大声で喚く。
「も、申し訳ありません、緊急事態でして、裏口から避難された方がいいかと」
「何事だと聞いているんだ!!下で何が起きてる!!」
慌てふためく店員を無視して、豚が声を荒らげる。用心棒に視線を走らせて、「確認してこい!!」と言った。
でもその前に開いた扉と、大窓の向こうから
ガシャァァンッ!!ガンッ!!ガシャン!!
激しい物音が響いた。それに伴う大きな悲鳴と、物音、数人ではない大人数での混乱が音からしてわかる。
そしてそれと、
「「いーろーはぁぁあ???」」
大きな声が響いた。
大窓のこちら側からでも聞こえるその声に私は目を見開いた。
「す、すいません、びゃ、白蓮という暴走族チームが乗り込んできまして…」
「ガキ相手に手を妬いているのか!?何をしてる!!とっとと、追い出せ!」
店員の言葉に豚が私の上から退いて、怒鳴った。
「いーろーはぁ??」
「おおーい!!どこにいんのぉ?!!!」
大声で響くその声に私はベッドから体を起こして固まったまま、大窓の向こうを見つめていた。
「族か!?ここに出入りしてた竜胆会とかいうチームの奴らはどうした!!」
「し。下で乱闘を繰り広げています、」
そこにいるのが、誰かということが分かってしまった。
「そ、れが白蓮は数人ではなく…何十人も率いておりまして、本日は他のお客様もいますし、騒ぎが起きますと警察が…」
店員が慌てふためきながら言う言葉に豚は顔を真っ赤にさせている。それでも、その向こうから聞こえてくる大きな物事が只事ではないことを知らせるように、響く。
ここに…いる、
「チッ!!望月を呼び戻せ!!お宅のセキュリティも見直した方がいいな!ガキに、乗り込まれるようじゃマトモな商売はできんぞ!!」
「も、申し訳ありません」
頭を下げた店員が扉から出ていった。あの用心棒を呼戻す気なんだろう。豚はまたこちらへつかつかと歩いてきて、私の腕を取った。
ベッドから、引きずり下ろすようにして引っ張っていく。
「ッ、!」
どうすることも出来ない、動揺するように目を泳がせる。歩くことに意識が向いていなくて、引きずられる。
それがまるで、抵抗していると思ったのか男はこちらを見て
「早く歩け!!」
と、怒鳴った。私はそんな声すら聞こえていなくて、ただ、冷や汗を垂らすばかりだった。
「…っ、…、」
口を開けることも出来ない、小さく開けても声は出ない。
ここにいる、
怖い、出ない、声が、出ない、怖い
引きずられる私は震える手と足、口に泣き出す寸前だった。
「「いーろーはぁあ??」」
やめてほしい。何度も、何度も、
まるで、返事をしろと言わんばかりに
「「いーろーはぁ??どこにいんのお??」」
私の、『名前』を呼ぶのは。
「ッ、…ぅ、…ぁ、…ぉ、……ぉ、」
絞り出すような小さな音。周りの物音や喧騒に全て飲み込まれ、自分さえも聞き取れない。
「ッ早く来い!!」
男が私の手を強く引いたから、私は思わず男を睨みつけた。
うるさいな
そのまま、男の腕に噛み付く。ガブッと強く噛まれた事に、男は目を見開いて「ッゥァア!?」悲鳴をあげて腕をおさえて、飛び退いた。
「ッァ、…ぁ、ぉ、っ、こ、こおおぉぉお!!」
振り絞って叫んだ声に目を丸くして驚いた豚は自分の手を押えたまま、動きを止める。
久しぶりに出した声が、自分の声が、こんな声だったかと耳を疑った。
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