島たけや

しま たけや

 三十年近く活動したスポーツの終焉。伝説の仲間を振り返り、人生の意義と身体の意志を未来に模索する。“ふるさとは遠きに在りて思うもの…”と今を生きている。  島たけやの不思議な出逢いの始まり、それは2006年暮れの事だった。父を亡くしてから色々な巡り合わせに遭遇する。これも包まれた愛である。

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真実を語る

 いつの時代でも「噓も方便」と言われ騙されやすい人と噓をつく人の人格が存在する。「正直者が馬鹿を見る」これもまた裏切りの表現である。若い時は、見知らぬエリアでの生活や仕事で色々と経験することが大切であり、最終的には本人の性格や学習能力で体験と思考能力を試されることになる。
 僕は噓を付けないタイプでごまかしが顔に出る正直者である。いつの時代も真実は変わらないもので年齢と経験で人間は変わる事が多く、いくつになっても幼稚な心が潜在することも自覚することだが、恣意的な行為であれが笑い笑顔で許せるものだ。他人同士で不自然な言葉や行為に接触することがあるが意味のない馬鹿にした表現に気付くとき「この人は経験が足りない」と判断している。
 社会には多数このようなタイプの人間もあり、成長した大人の思考判断と会話の出来る人間がいてどちらも楽しいグループだが成長した考えを語るためには「寄り選ばれた人」の集合体が安全を確保出来ることなのだ。日本の人間は、戦後から最終学歴(履歴書と職務経歴書など)で人間や出来不出来を見てきたが構造状態が出来損ないで終焉を迎えることとなった。
 今回のコロナ感染症時代がそれを証明するかのように日本社会は日本人で克服できないほどの政治や医療体制に国家体制が国民に不安定な社会情報の伝達や仕組み説明の実証的な進行がないと「戦後の日本」の存在を経験したのだ。

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