矢田くんを推している野崎ちゃんは、いつも笑顔で矢田くんに挨拶をする。
矢田くんはそんな野崎ちゃんをいつも無視する。それでも、矢田くんを見かけるたびに寄っていく野崎ちゃんに、周りの友達は首をかしげる。
それは野崎ちゃんだけが知っているから──矢田くんのマスクの下の頬が赤く染まっていることを!
照れ隠しで無視をされているとわかっている野崎ちゃんは、矢田くんに嫌がられていないと気づいている。これは、誰にも教えない野崎ちゃんだけの秘密なのだ。
「推しって、好きってことじゃないの?」
「うーん、推しは推しだよ!」
これは恋じゃない、と自分に言い聞かせる野崎ちゃん。野崎ちゃんは、去年、好きな人に振られた経験から、恋をすることが怖くなっていた。
「じゃあ、私が矢田くん狙っちゃおうかな〜」
「え?」
「だって、推しってことは好きじゃないんだよね?」
クラスメイトの言葉に、モヤモヤする野崎ちゃん。
野崎ちゃんは矢田くんを推しだと公言しているが、それが矢田くんに恋をする人の迷惑なのではないかと思い始めた。
矢田くんは優しいことを野崎ちゃんは知っている。
野崎ちゃんが矢田くんを好きになったきっかけ──それは、二年に上がったばかりの移動教室での出来事だった。
選択理科の移動教室で、地学選択は少人数だった。先生が来ておらず、まだ教室が開いていなかった。初対面にも関わらず、野崎ちゃんは話しかけたところ、相手をしてくれて、その優しさで推しになったのだった。
矢田くんに彼女ができることは良いことなのに、推しの幸せを素直に祝福できない自分にモヤモヤする。
野崎ちゃんは、矢田くんを狙う友達のために、矢田くんに近づくのを控えるようになった。
一方、矢田くんは自分が何かしてしまったんじゃないかと考える。しかし、自分に話しかけるも話しかけないも、野崎ちゃんの自由であるから、自分が口を出せることはないとも思う。
矢田くんにとって、野崎ちゃんはありがたい存在だった。きっかけは文化祭準備。段ボールをカッターで切っていた際に、手を切ってしまった。そんなドジを死ぬほど心配してくれたのが、野崎ちゃんだった。
高校受験に失敗して、自分に価値はないと思うようになっていた矢田くんにとって、大袈裟なほど心配されることに、自分に価値があるように感じられて、ありがたかったのだ。
野崎ちゃんが、友達と話しているところに遭遇する矢田くん。
「野崎はさ〜、矢田のこと好きなの?」
「え? 推しだよ、推し!」
「だから〜! 彼女になりたい、とは思わないの?」
「え〜? 推しだからなぁ」
胸がずきりと痛む矢田くん。
野崎さんを好きなのか、俺は。
彼女にとって、自分は所詮推しに過ぎないというのに。
そんな中、矢田くんは野崎ちゃんの友達から告白される。
「ごめん、俺、好きな人いるから……」
告白現場を、野崎ちゃんは目撃してしまう。
「わたしのせいで、矢田くんに片想いの邪魔をしてしまったんだ……」
「じゃあ、わたしは?」
矢田くんの返事を聞く前に、野崎ちゃんはその場を去る。
「わたしは、矢田くんのこと、好きじゃなかったの?」
翌日、登校したものの教室に居づらくて、屋上に続く階段に座り込む。
矢田くんをもう推せないことを残念に思う。
涙が出てきた自分に驚き、やっぱり好きだったんだと失恋を実感しているところに、矢田くんが現れる。
「なんで泣いてんの」矢田くんに好きな人は誰か言わずに、失恋したことを話す。
矢田くんは野崎ちゃんを探していたと言う。
「なんで私のこと探してたの……?」
「好きだから」
「うぇ……?」
「野崎さんが今、失恋したならフリーでしょ。返事は今すぐとは言わないから……」
野崎ちゃんは矢田くんのマスクをずり下げる。真っ赤な矢田くんの顔。
野崎ちゃんはにっこりと笑う。
「わたしも、矢田くんが好きです」
野崎ちゃんと矢田くんは付き合うことになった。