おはようございます٩(๑´0`๑)۶
今週、事情及び既刊をお読みくださった方、しおりくださった方、ありがとうございました。
<(_ _)>
٩(๑´0`๑)۶
こんな可愛く起きてくることは絶対にない。過去から今まで絶対にないのですが、さまざまな顔文字を使ってみようシリーズ。使ってみました!別に自分がこんなに可愛く起きてくる人間ではないってのは周囲の人間しか知らないのだから、なりすまし?できんじゃねと思いつつ……
しかし、小説はともかくエッセイを書いておりますから、文章から人となりを読み取れる方から見たら、
「ギャップが……」
ということになるのかなと思いながら、でも、使ってみた!
(ここまで行を費やすほど大したことではないがな)
ちなみに、若い頃ほど熟睡できない不眠気味の人間は、今日も熟睡できなかったぜとナメクジのように起きてくるのですよ。ナメクジのように……。ちなみに流石にナメクジのように起きてくる顔文字はなかなかありませんね。
今後の投稿予定です。
4月 22+23短編 飯塚春菜の事情+α 掲載済
きみどり② 第7章 暎編 執筆中 0.1万字
5月 未定
次の小説のために、解離性健忘についてもう一度色々と調べてました。
解離性ということについてもですね。
なんというか……かなり微妙だったんですが、私本人が解離性健忘の状態ではないんですが、解離という状態にですね、覚えがあるわ。
かなり微妙でした。
大昔の子供の頃の話です。この感覚を知ってますね。
作品中にも何回か書いていますけど、自分に起こっていることなのにまるで自分が自分の中から抜け出して、生き霊のように空中に漂って、他人を眺めるように自分を眺めているという感覚。
そこからさらに進んで記憶を失うことはなかったけど、やっぱ結構辛かったんだなぁと思う。
それでですね、自分はそういう状態から少しずつ自分を立て直してきた人間なんですが、その中で、いつかその自分から抜け出て解離してしまった生き霊の自分を自分の中に戻して、怒りの感情を取り戻したいと思ってたんです。ものすごい時間がかかってたんだけど、それを一つのゴールだと思ってやってきてました。
しかし、この、解離という状態の心理学的説明を読んで、ちょっと考えが変わったというか……。
自分の心を守るための行動だったんですね。あれは。
だから、多分自分は一生その解離状態にあった時の自分の生の感情を、これも思い出す、というのでしょうかねぇ。思い出すというか取り戻すことはないだろうなと思いました。
あのために、人間としてなんというか欠けてしまった気がしていて、だから、自分としては完璧な人間に戻るための取り組みというかね、なんかだったのかなと。
だけど、その取り戻そうという姿勢そのものが、無理していたんだなとしみじみと分かった気がします。
自分が特別に何か悪いことをしたわけでもないのに、人生から奪われてしまう。
そんな経験をした人はおそらく私だけではない。
それならこれからどうやって生きていく?
自分よりもっと不幸な人を思い浮かべて、私なんか全然幸せじゃないかと言い聞かせながら歩いていくんでしょうか?
自分はもう大人ですし、なんだかんだ言ってでも元気というか平気なんですけど、
ただね、自分がかなり淵のようなところにいて辛かった過去を持っているので、
他人に、他人と比べてあなたは幸せじゃないか、って慰められても、全く役に立たないということを経験しているんですよ。
自分的には心の中の地獄のようなところを潜り抜けてきたわけで、そこで、何かきっかけや方法があって今元気にやってるんだと思います。それがなんだったんだろうというのは、こと細かいところまでは自分でも文字として持っていなくて、書き出しながら書いたものを読みながら少しずつ理解してゆくことなのかなと。
喜怒哀楽の怒を失ってしまい、それを取り戻して完璧な人間に戻ることが私の人生の一つの目標でした。
ただおそらく私は、その感情を完全に取り戻すことはできないでしょう。
ここで、完璧な人間とは何か、という自分の前提のようなものをもう一度解体して考え始めるのだと思います。ただ、なんとなく思うのは、人と違ってもいい。完璧な球でなくともいい。自分は自分なんだってことなんじゃないかなぁ。
世の中には、人と違う人とか、人より弱いというか繊細な人というか、そういう人をその人の言葉によっていえば、「成長して欲しいから」って否定してくる人がいますが、でもね、私は今の時代は多種多様性を認め、それを面と向かって弱さと言ってなじる方法ではなく、別の言葉で認めることが必要なんだと思いますよ。多種多様性を認め、さまざまな人を社会という世の中に引き出して、活躍させる、そういう仕掛けを作れる人こそが、現代に求められるヒーローなのではないでしょうか。
私はもう大人になりましたから
「君に成長して欲しいから」
と言われて否定的なことを言われても
「はぁ、そうですか。それはどうも」
と言いながら、右の耳から左の耳へ聞き流すことぐらいできますけどね。
馬耳東風とはこういうことを言うのだっけ?
自分の物差しでしか他人を測れず、世の中を見られない人になんて、馬耳東風シールでも貼って、右から左へ聞き流してやればいいのですよ。この人の言うことは聞かないでいいなと。
「そうですか。それはそれは」
と笑いながらね。
自分にとって価値があり新しいことというのはいつも他人の中に眠っている。心を開いて他人の考え方を聴きたいと思っている人にだけ、自分の心はひらけばいい。無駄に傷つく必要なんてないんですよ。
人生は不幸に見舞われることがなければ、自分で思っているよりも意外と長いなと、だけど、その時間、無駄に傷つくことに使っては、やっぱりもったいないです。
なんだか長々と書きました。
暎さんの冒頭のシーンを書き始めたら、やっぱりまた勝手に筆が動きまして……
今回の章は非常に大切な章なので適当に書けないなと、スタートしつつも筆を止めて、またちょっと逃げてました。なぜか今更デスノートを読んでます。
途中まで知ってて途中から私、知らないんですよね。
自分で自分に許している漫画購入の限度額を、今月は超えてしまうかもしれません。
それではまた
汪海妹
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