“己を知り己に生きた” 立派な相場師

作者兜町の欲太郎

醤油屋の末っ子、醤油お酢の行商に嫌けし渡米を考えたが母の反対で断念、落綿屋で働き、23歳で結婚し相場師の出発。持って生まれた嗅覚と運の強さは全勝の成果を収めた。

何故か紀州和歌山生まれの相場師は多くおりますが紀州一の人望高い相場師はこの人が最長けておるのです。醤油醸造の末っ子として生まれ、醤油お酢の行商に嫌けしてアメリカ渡航を考えましたが、母親の反対で断念し、綿糸の「落綿屋」で働き、23歳で結婚して大阪・堺に、敷金30円、家賃3円で新居を構え、相場を張り出した。


此の頃の風呂代(銭湯)と、うどん代金が共に 1 銭 。梅田から道頓堀間での電車賃が 4銭 の時代で運悪く新婚数カ月後に、夫婦同時に病に倒れ焦りに取付かれ手を出したのが相場師の出発。持って生まれた嗅覚と運の強さはほぼ全勝の成果を収め、39歳で縁有り大阪株式取引所の仲買人になり、翌年40歳で北浜市場に進出を計った。