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汪海妹

ワンハイメイ

2019年の夏頃より小説を書いています。

一番最初は主人公たちが高校生から大学生になる頃を扱っていて、その次と次の次はそのまま彼らが親になって大人になってゆく世界を書きました。その後、そのまま作品の中に出てきた脇役を今度は主役にし、以前の主役達を脇役にするという形で、どんどん作品数も増えました。

自分の作品の中で一番読まれている作品は、木漏れ日①というもので、これはリーマンを卒業して起業する…

ι(⑅・ᴗ・)/ " おはようございまーす

今週、既刊お読みくださった方、ありがとうございました。
<(_ _)>

投稿予定です。

3月 短編集
   あちらでは風は逆に吹いている 執筆中 0.7万字
4月 いつも空を見ている④
   タイトル未定 執筆予定
   きみどり②
   7章 タイトル未定 執筆予定

蟻の歩みでジリジリと書いておりました。
短編ではあるんですが、地味に長くなりそうだなっと。
3月には書き終わりそうにないのに3月に置いているところが未練がましいです。
_( _ ´⚰︎` )_

東京では今日あたり桜が満開なんですかね?桜なんてもう何年見ていないかしら?
それと花火ですねぇ。今、見たいものは桜、花火、紅葉。
冬景色は春節の帰国する時に見てるわ。

昨日は、この深圳にもオーケストラが来るぞってことで、金曜の夜にクラシックのコンサートへ行ってきました。どこの国のどこの楽団なのかが、中国語で書いてあり、なぜ英語で書いてくれないのかしらってことで、さっぱりわからん。

韦尔比耶音乐节管弦乐团
なんぢゃこりゃ?
ヴェルビエ祝祭管弦楽団。あ、スイスの方達でした。調べました。

チャイコフスキー、ロココの主題による変奏曲、チェロ奏者の女性が皆が他の団員が黒で正装している中に赤のパンツスーツで現れ、抒情的に奏でる。

ずっと頭の中で、チェロといえば宮沢賢治のセロ弾きのゴーシュだぜいと思いながら眺めておりました。

サンサーンスのピアノコンチェルト、ピアニストの方が見事に金髪でまだ若い方でね、
やっぱプロのピアニストはピアノが上手だな、ででん(→浮浪雲風にお願いします)

ととっても当たり前といえば当たり前の感想を持ち、最後がベートーベンの交響曲第7番。
これが、

ベートーベンって普通の人じゃなかったんだな。
……

強烈にそう思っておりました。身を乗り出して聴きながら。もちろんこの普通の人じゃないっていうのは変人だという意味ではなく、独創的な才能を持った人という意味で。

ちなみに自分はワインやクラシックに詳しいハイソな人間ではござんせん。ただ、母が教養のある人で娘たちにも一通りのことを教えようと、父の財布からチケットを買い、時々はクラシカルコンサートへお出かけになるご家庭だったわけ。
この長いハイソックス履きづらいな、レースの襟ってなんのためにあるねん。邪魔じゃね?と思いながら似合わない服で出かけ、ジャジャジャジャーン、みたいな。
つまらないので人間が何人いるのか数える。

「どこが良かった?」

親に聞かれ、大体小学生は打楽器をベースに答える。

「シンバルがじゃあああんとなったところが」
「ふうん」

親というのは、子供をまっすぐに見られない生き物ですので、その答えにうちの子は見どころがあると思ってる。ちなみに、子供がクラシカルミュージックで打楽器に興味を持つのは、一つに眠くなってきたところに起こしてくれるからであり、二つに出番が少ないのによく打つ場所を間違えないなというところである。

ちなみに、子供ながらにあまりに脇役な打楽器の人たちに同情もしつつ興味があった。
あ、打楽器の人は複数の打楽器を打っている。打っているぞ、とか。
なんで、作曲家はもっと打楽器の出番を増やさなかったんだ、とか。
さらに、微妙に管の方も弦に比べて人数が少ないし、休んでいる時が多いよね?

そこに、社会の縮図を見る。
なんでバイオリンばっかりいつも出番が多いんだよっと。

そして、そんな子供の頃のかなりズレたクラシカルミュージック鑑賞の癖を残しつつの昨日である。
皆が平等に扱われているか、つまりは出番が安定しているかの基準に沿って曲目ごとに眺めていると、

あら、ベートーベンさんが一番まんべんなくみんな出てくんじゃね?
ぶっちゃけ、チャイコフスキーやサンサーンスには悪いけど、稼働率ではベートーベンの7番が上だった気がするわ。

個人的好みとか、あとは、私がチャイコフスキーやサンサーンスの曲をよく知らないせいもあると思うんですが、順番に聴いていてベートーベンの曲の聴きやすさといったらなかったですね。その原因がどこにあるのかが昨日の今日でははっきりいえないのだけど、素人として言葉にするならば、クラシックってめっちゃ静かになったり、めっちゃキリキリ速くなったり、反対にゆったりしたり、一つの曲の中にもさまざまな変化を含んでいて複雑な起承転結を構成していると思うのですが、そのキリキリやゆったりに聴いている人の感情も揺らされる、もうちょっとわかりやすくいうと弄ばれる、そんな要素があると思うんです。

一緒に波乗りしているようなね。

クラシックだけはよほどいいステレオでなければ、現場に勝るものはないのかもね。船に乗って海を奏者も観者もゆくようなものではないですか。

それが共生に似ているのだなと思ったのですよ。

人種を越えて国籍を越えて、ベートーベンは300年前に死んでいるので時代も越えて、だけど音で繋がって一緒の船にのり波が激しく荒れ狂ったり凪を迎えるのを体験するんですよ。あれほどの数の楽器と現場でなければその体験を一緒にすることはできない。

音というのは本来360度の全方位から自分に向かってくるものですからね。

最近は本当に沈黙が不足しているというか、いつもいつもさまざまな人や物が立てる雑音、あるいは騒音に囲まれていて、何も聞こえないということがなかったよなと思う。
クラシックは沈黙こそが命というか、それは絵でいうならば黒だと思うんです。
無から立ち上がる物だってことですかねぇ。
ゼロを意識してそこにものを置くということが大事で、ゼロというのは黒というかあるいは音楽では無音の状態ですが、芸術家が最も集中できる始まりと終わりではないかな?

生きるということは死というゼロに近づいたり遠ざかったりしながら繋がってゆくことで、生き生きとした生、輝かしい生というものの裏側には表から見たらわからないのだけど、死が意識されているべきなのだと思います。

ベートーベンの7番は作品が作られた背景とかよく知りませんが、やはり曲の中にさまざまな側面を持っていて、私流に言わせると 華やかな生、そして、厳かな生、この厳かな生についてはわかりやすく噛み砕くと、彼の曲にはこの曲を背景にスターウォーズの大艦隊が宇宙を進んでいても全く遜色ないなという迫力がありますよね。ただ、同時に桜の蕾が綻ぶ瞬間のようにやわらかな旋律も出てくる。

普通は相反するものを一つのところに入れ込むと齟齬が出るものですが、一つにまとまっている。
そして、ただひたすらに静寂へと向かっていく静かな部分もあるのです。連続してゆくダイナミズムとでもいうのかな?そこのつながれ方の中に必ず低音が生きていますね。場面が変わってゆく時にオーケストラの人たちの誰もが忙しくて欠けている人はなくて一緒に切り替わってゆく。タイミングをずらしてはそのダイナミズムが死ぬので、奏者も必死です。

そういうのが社会の縮図に見えると言っては言い過ぎでしょうか?
みんなが休む余裕のないまま無我夢中に全体で一つになろうと楽器を演奏して、気づくと大きなうねりのようなものが生まれている。それは確かに海の波に似ていると思いました。

次へ次へ置いていかれないように必死に演奏して一つになってゆく傍で、聴いている人たちもこの次が聴きたいと思う。300年も前に死んだ人なのに、今ここでまだ生きていて生きている人たちと繋がっていて、

そして、いわばベートーベンはやり手の社長のようなもので部下をここまで120%で走らせているぞと。

世の中というのも理想を言えば、成員の全てが何がなんなのかわからないままに、ただ、正しい方へ一緒になって走ってゆく。かけてゆきやっとゴールに飛び込み振り返れば、拍手の鳴り止まないエンディングが待っている。

そういうものなのかな?あるいはそういうものであって欲しいなと。

これが私が、ベートーベンは普通の人ではなかったのだなと思った所以で、昨日の感想です。
やれやれ

それではみなさま、素敵な週末をお過ごしくださいませ。
ワタクシはベートーベンは置いといて、やはりコツコツ少しでも
書きかけのものを書き進めようかと思いまする。
汪海妹


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