なんか「本日3月20日の12:06に自分のことを願うと何でもかなう魔法の時間が数千年ぶりに来る」みたいなことをせっせと広めてくる人がいるなぁ、とネットを眺めていた。まあ、信憑性のほどは知らないが春分の日は魔術的にどうこうだ宇宙元旦だ云々と盛り上がっている人もいるようで。ところで「その時間に願いごとをした人の願いがかないませんように」と願ったときに天がどう采配をするかちょっと興味がある。前に神社で「ここにかけられた願いがかないませんように」という絵馬をかけていた人がいたんだよね。噓つきのクレタ人みたいなことをしたいのかしら。
どうにも妙なことで躓いてしまうとこがあって仏教の学習会に行ったときに「すべての物事は移り変わる。これを諸行無常といいます」と習ったときの私の講師に対する最初の質問は「諸行無常という教えは無常なのですか?」だった記憶があるなぁ。いや、別に相手を困らせたいとかじゃないんだけど…。周りの人がなんなく通れるところでどうにも躓いてしまうところがあって。
正教会の人が「全能の神様は自分に持ち上げられない石を作れるのですか」って質問に「できるけどやりません。子どもを愛してる親が我が子を殺すことはできるけどやらないのと同じです。神様は人間を愛してるので人間を困らせないのです」って答えてたのも思い出した。答えになっているかどうか怪しいところではあるけど信徒の中では何かストーリーができてるらしい。アンブローズ・ビアスが『悪魔の辞典』で書いていた「信仰:類例のない物事について、知りもしないくせに語る者の言うことを、証拠がないにもかかわらず正しいと信ずること」とかのほうが気が利いていて面白くは感じたかな。ビアスだと「聖職者:自分は天国に至る道のインコースを走っている者であると主張し、かつその道を通る者に通行料を課したいと思っている紳士」というのもなかなか味わい深い。
こういうことを言ってると「現実を良くしないただの議論はためにする議論で無用の長物だ」とか「兎にはどんな角が生えているか議論するようなものだ」となんかこちらを罪深い者として口を塞いでくる信徒をたくさん見てきたけど、別に私はたいしたことしたいわけじゃなくて「分からないから不思議」なんだよね。金子みすゞの詩に『不思議』というものがあるけどそんな感じで。
まあ、こんなことで頭をひねってるより金儲けの勉強でもしてるほうがいい歳をした大人というものだとは思うね。私はせっかく語学に興味があるのに英語をやらずに様々な言語を学んでいるあたり、どうにも経済的な普通の社会人像からはズレているような気もするね。部屋にロマニ語もアイヌ語もバスク語もテキストがあるとかわけがわからないよ。エスペラントで歌詞を書きトキポナで小説を書くとか一周まわって何かすごいことをしているのでは、とかボブは訝しんだ。私が自然に生きるとそうなるんだけどね。なんか私はずっと「分からない…分からない…」と言いながら生きてそうだなぁ。変な奴!
やはりここはひとつ、蓮の花をねじって微笑んでみたり墓場の掃除をして小石を竹に向かって飛ばしてみるしかないな。本を燃やすつもりはないけれど。手足が腐るまで壁に向かって座り続ける根気はない。軟弱な現代人なので(きりっ
ところで少し前に引退したイクイノックスという競走馬の名前の由来は『昼と夜が同じ時間になる日』みたいな感じなのよね。つまり春分・秋分とかのことなのかな? ということは今日はイクイノックスの日か。アーモンドアイに種付けするらしくてその産駒はとても楽しみだなぁ。それはそれとしてアカイトリノムスメの子どもはどうなっているんだろう。カレンブーケドールはエピファネイアの子どもを産んでいてそちらも楽しみではあるのだが。